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2020年12月
第110話
朝事*
住職の法話
「
拝
(
おが
)
まない者も《
東井義雄先生の詩に次のような詩がございます。
『拝まない者も おがまれている
拝まないときも おがまれている』《東井義雄》
短い詩ですが、味わい深く、何回読んでも、新鮮味を感じ、仏様の心が感じられる詩だと思います。
東井義雄先生は、中国山脈の山の中の寺にお住まいでした。バス停まで、自転車で出かけておられました。
出かける時に「地蔵峠のお地蔵さまの前を通る時は、忘れぬように挨拶するんだぞ《と、自分に言い聞かせていたそうです。
ところが、お地蔵さまのところが坂道になっていたので、スピードが加速して、お地蔵さまへの挨拶を忘れてしまっていたのだそうです。
出かけるときとは反対に帰りは坂道が、出かける時と反対に上り坂になっています。
自転車を押して坂道を登って、お地蔵さまの前までくると、いつもハッとされたそうです。
お地蔵さまが合掌して、東井先生を拝んで下さっているからです。
東井先生が、挨拶も忘れて、走り過ぎていた時も、お地蔵さまは、拝んで下さっていたに違いない事に気づかれたそうです。
申しわけなさと、幸せを味わわせて下さるのが、地蔵峠のお地蔵さまだったのでした。
東井先生は、「なぜ、どうして、私などを拝んで下さるのか?《
そして、親鸞聖人のご和讃を思い出されるのでした。
『五濁悪時(ごじょくあくせ) 悪世界
濁悪邪見(じょくあくじゃけん)の衆生には
弥陀(みだ)の吊号 与えてぞ
恒沙(ごうじゃ)の諸仏勧めたる』
というご和讃です。
濁り、汚れた今の世に、生まれた濁悪邪見(じょくあくじゃけん)の衆生の自分が救われる道は、お念仏以外にはないと、 ガンジス河の砂の数ほどの沢山の仏様が、私に、お念仏を進めて下さっているという意味のご和讃です。
東井先生は、このご和讃を思い出すと、お地蔵さまのお心が、私の胸の奥まで届いて下さると味わわれています。
東井先生は「お地蔵さまは、『わしへの挨拶は忘れてもいいが、十劫の昔から、念じずめに念じ、願いずめに願って下さっている阿弥陀さまのお呼び声、 お念仏だけは忘れないようにしておくれよ』と、手を合わせて頼んでいて下さっているのだと、気付かせて頂くのです。《
(「拝まない者も おがまれている《東井義雄)
と味わわれています。
この東井義雄師の詩には、「拝む《(おがむ)という言葉が出てきますが、仲野良俊師が、「拝む《ということについて、次のように言われています。
『帰命(きみょう)とか南無(なむ)とかいうのを形であらわすならば、拝む(おがむ)礼拝(らいはい)ということになります。
形であらわされた礼拝のうちに流れる深い心を帰命とか南無であらわすのでありますが、帰命は中国のことば、南無はインドのことばであります。
これらはともに、自分の国のことばを通して、深い宗教心をあらわしたのでありましょう。
よく世間で「自分は何ものも拝まない、またそんな必要を感じない。そういう卑屈(ひくつ)な人間ではない《と、さもそれがりっぱな人であるかのように 言われる人がありますが、拝むとか拝まぬとかいうような立場から、もし拝むことにしたのなら、それは本当の礼拝ではありません。
拝むか拝まないかということではなくて、拝めるか拝めないかということなのであります。
拝まないのでなく、拝めないのです。拝むべきものが見つからないのでしょう。
そういう生活はまったく日常生活というもので、よかったとか悪かったとか、足るとか足らんとか、搊(そん)したとか得だったとかにまぎれて、 自分自身に問題を持たないということをあらわしただけではないでしょうか。
考えてみますと、この世の中に生きているものはいくらもおります。猫でも馬でも、鶏(にわとり)でもミミズでも、みんな生きております。
人間もやはり生きているということには変わりありません。
しかし、人間は、ただ生きているというだけではありますまい。生きていながら生きていることに問題をもつ、ここに人間の人間らしさがあるのではないでしょうか。
人間はたとえば病気で困る、貧乏で困る、あるいは家庭がうまくいかないので困る、いろいろのことに困っています。
しかし、そういういろいろのことに悩むもう一つ奥には、自分が自分に困っているということがあるはずです。
そういう自分に困っているということに眼ざめたときに、礼拝(らいはい)が成り立ちます。
したがって拝むということは、人間がいろいろのことをしますが、その中でいちばん人間らしい行為であるといえましょう。
だから、礼拝(らいはい)ということは、別にだれが発明したものでも、考えだしたものでもありません。
個人を超えた人類の歴史の中に、おのずから生まれてきたものでありましょう。
これは、人間が自分自身の存在に悩み、自分をもてあまして無条件に自分の存在を投げ出す行為でありまして、宗教の世界には必ずこの礼拝(らいはい) というものがともなっております。
したがって、礼拝(らいはい)は場所の如何(いかん)を問わず、今も昔もつらぬいている人類的な意義をもったものであるといえましょう。
ただ、問題はその礼拝(らいはい)がどこまで純粋であるかどうか、ということであります。
前にも言いましたように、礼拝(らいはい)は帰命(きみょう)とか南無(なむ)とか、南無の心のあらわれでありますから、まったく私たちの 無条件の心をあらわします。
しかし、必ずしもいつもそうなっているとはかぎりません。
無条件とは頭が下がったことでありますが、外の形である礼拝(らいはい)だけでは、さがったのか、さげたのかわかりません。
さげたのならやはり何か条件があるのでしょう。
私たちは日常、いろいろの人に頭を下げますが、そこにはやはり自分の思うことを聞いてもらおうとか、何かちゃんとたくらみがあります。
これはさげたのでしょう。えてしてこの心は宗教の世界にまでもちこまれます。
拝むというけれど、もし人間の条件があるなら拝んだとはいえません。
頭はさげてみても、結局、人間の都合が腹の中にあって、それをかなえてもらうために拝んでいるという、純粋であるべき宗教の中でも、人間の 我執(がしゅう)の影がさしているということになると、もはやそれは人間を救う宗教にはならないのであります。
こういうふうに考えてみると、純粋信仰をあらわす礼拝(らいはい)は、実は人間から成り立たないのではないでしょうか。
むしろ人間の考えや思いが破れるところに本当の礼拝(らいはい)が成り立つのでしょう。
そのためには、人間に自分の思い以上のもの、考え以上のものが見つからなければなりません。
人間の思いを超えて、真に無条件になりうるようなものが見つかるとき、-拝まざるをえないものが見つかるとき-はじめて私たちは思いをすてて それに帰することができるのであります。
礼拝(らいはい)は宗教の門でありますが、人間からの礼拝(らいはい)によって宗教がはじまるのではなくて、宗教の門である礼拝(らいはい)は、 すでに宗教の世界からひらかれていることに、私たちは気づかねばならぬと思います。
これが親鸞聖人のいわれる帰命(きみょう)、南無(なむ)の心なのでありましょう。』
【「大きな字の 正信偈講話《 仲野 良俊】
拝むのは、姿は私が合掌・礼拝して、私が拝んでいる姿をしているけれど、内実は、仏さまの方が、私を拝んでいて下さるということなのでしょうか?
しかし、私の方から、仏さまに近づき、仏法を求めていくということは大切なことでしょう。
そうでなければ、仏さまの教えとの接点が得られないことになります。
自分の思いを積み重ねて、仏法を学んでいかなければ、教えを聞いて理解することもできないでしょう。
しかし、一生懸命に教えを聞いていく中で、いくら自分の思いを積み重ねて行っても、それは所詮、人間の世界以上には至らないのだ、 人間が行うことは人間以上の世界、果報には至らないのだということを気づかされていくのではないでしょうか?
元々、仏教とは、「仏の教え《、「仏の説かれた教え《、「仏になる教え《というものです。
仏とは何か、仏は何を説かれたかという教えであり、仏になるための教えということです。
仏とは、ブッダ(仏陀)と同じ意味で、「真理に目覚めたもの《という意味です。
仏様の世界から説かれた教えですから、自分の思いの世界とは、明らかに違っているということに気付かなければならないのでしょう。
仲野良俊師は
「念仏とは人間の方から仏を念ずるというようなことではなく、人間の問題が人間のはからいを超えてすでにこたえられてある法、すなわち南無阿弥陀仏のこと。《
とも言われています。
そういう仏様の世界から、私たちは拝まれているのですね。
それが「拝まない者も おがまれている《という意味ですね。
「自分が仏様を拝む前に、既に仏様の方から、私を拝んでおって下さる。《
自分は仏様から拝まれているのだと、少しは自分を大切に思い、尊敬することも大切なのではないでしょうか。
東井義雄先生の詩に、次のような詩がございます。
『川にそって 岸がある
私にそって 本願がある
川のための岸 私のための本願』
東井義雄先生は言われています。
「せっかく寺に生まれさせていただきながら、仏さまに逆き、悪態の限りをつくしてきた人間です。
そんな私が、とうとう、どうにもこうにも頭が上がらない広大な世界に目覚めさせていただくために、気がついてみると、幼い時から、 ずうっと、ずうっと、そういう私によりそって、はたらきづめにはたらいていてくださったはたらき、願いがあったのです。
岸のために川が流れているのではなく、いつ、どこで、どんな大暴れをやり、自他を破滅に追い込んでしまうかわからない、おそろしいものを 潜めている流れにそって、川のために岸がつくられたのです。
「仏さまも糞もあるものか《などという私によりそって、私のために本願がはたらき、できあがってくださったのです。
「『
五劫思惟
ごこうしゆい
』なんて、どこにそんな証拠があるか《
などと悪態をついていた私でした。
一劫(いちこう)というのは、四十里立方の大きな堅い石を、天人が、三年に一度天から降りてきてその軽い羽衣(はごろも)でなでますと、 石が目にも見えないほど僅(わず)かに減ります。
そうやって、四十里立方の堅い石が消えてなくなるのを一劫、その一劫が五つ寄ったくらい長い間 法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)がご思案なさったなんて、 私には信じられないことだったのです。
だから、どこにそんな証拠があるか、などとうそぶいていたのです。
でも、証拠はあったのです。証拠人がいたのです。
証拠人が私だったのです。
自分で自分がどうにもならない私、それは、如何な法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)さまでも、「五劫思惟《(ごこうしゆい)なさらないではどうにもならなぬ ということであったのです。
その私を目覚めさせようと、いろいろなお手まわしがなされてきたのです。
川の流れにそって、どこまでも、どこまでも、流れが、究極のところにおちつくまでは、岸が、よりそってはたらいてくださるのです。《
(「拝まない者も おがまれている《東井義雄)
仏法を学ぶとは、ただの勉強ではなく、私の実際問題として味わわなければならないのだと教えられます。
ここに、「自分で自分がどうにもならない私《ということが言われています。
仲野良俊師は、どうしようもない人間の姿について、次のように説かれています。
『釈尊のおことばを親鸞聖人は「真言《(しんごん)と呼んでおられます。
が、これは本当のことば、まことのことば、しかしこの本当のことばとは、どんなことばでしょうか。
それは、ただなるほどと感心することばというだけではありません。
それは人間を動かしてくることば、言いかえれば、まことでないものをまことにすることばであります。
凡夫(ぼんぶ)というものはまことを失っている存在。
その凡夫(ぼんぶ)を成仏せしめる、つまりまことを与える、真にそれを成り立たせるような、そういうことばをまことのことば、「真言《(しんごん) といわれたのであります。
で、『大無量寿経』には、何が説かれているのかと申しますと、南無阿弥陀仏が説かれています。
南無阿弥陀仏というのは、人間の現実の救いであります。
というのは、人間の現実存在を仏教では凡夫(ぼんぶ)というのでありますが、それはひと言でいうならば、どうにもならぬ存在。
つまり、話が分かっても、理屈を知っても、なかなかそうならぬ人間、心がけても間に合わず、自分の心ですら自分でどうにもならぬ人間、 言うまいとしても言い、思うまいとしても思う、そういうどうにもならぬ人間を凡夫(ぼんぶ)とよんでおります。
しかしそれかといって、それに甘んじることもできず、やはりなんとかしたい、少しでも理想の方へもってゆきたい。
けれどもどうにもならぬ。どうにもならぬがどうかしたい。
そのどうにもならぬのは現実でありますが、どうかしたいのは理想でありましょう。
この谷間をウロウロしているのが、私たちの姿ではないかと思います。
どうにもならぬがどうかしたい、どうかしたいがどうにもならぬ。
しかし、どうかしたい。それをどうする必要もないのだと眼をひらく、それが信仰であります。
南無阿弥陀仏ということは、どうかしたいがどうにもならぬという人間の心を破って、(それが南無ということでありましょう)
どうする必要もない世界をひらく、(それが阿弥陀仏ということでありましょう)
ここに人間の現実の救いが実現しているのであります。
これは絶対現実の救い、自分に悩むものが絶対現実の一点一角も変更する必要がない救いを見いだすこと、どうにもならぬ凡夫(ぼんぶ)が どうする必要もない自覚をもつ。
つまり、凡夫(ぼんぶ)に仏を実現する。
そのことばが南無阿弥陀仏であります。』
【「大きな字の 正信偈講話《 仲野 良俊】
この言葉はいい加減に聞いては、大きな過ちをする危険性のある、きわどい言葉だと思います。
よほど善悪に悩んだ人間でなければこういう言葉は出て来ないのではないでしょうか?
決して安易な、いい加減な、横着者の言い訳みたいな言葉ではないことを忘れてはいけないと思う次第です。
「どうにもならない凡夫(ぼんぶ)《がいいと、安易に肯定されているのではないでしょう。
どうにもならない凡夫(ぼんぶ)を、どうにもならない凡夫(ぼんぶ)と、厳しく見つめている仏さまの眼差しが、そこに働いているのです。
「どうにもならない《ということに気付くことが、智慧の光に照らされている姿ではないでしょうか。
自分の罪を自覚しない者には、罪を改めるということは起きないのでしょう。
自分の罪を自覚することなくして、罪が解決することはないのではないでしょうか?
「罪が消える《という問題も、大変大きな問題だと思います。
仏に成るということは、罪が消えなければ、成立しないことではないでしょうか?
凡夫が仏と成らせて頂く、ということは、仏さまの智慧と慈悲の活動が、如何に無限な活動であるか!ということを思わずにおれません。
そういう仏様の慈悲心を知らせて頂いたのなら、「悪い心の止まない凡夫ではあるけれど、これ以上、仏様に、ご心配をおかけしては、申し訳ない。《
そういう慚愧(ざんぎ)の思いから、
「出来る限り、慎ませていただこう。凡夫ながらも、仏法に精進させて頂かなければ勿体ない、道心を忘れないようにしたいものだ。《
という気持ちが、自然と起こって来るのではないでしょうか。
そういう気持ちが起こって来ることも、仏さまの働きのお陰であります。
阿弥陀さまの心を、お経には、
「若上生者 上生正覚《(にゃくふしょうじゃ ふしゅしょうがく)
と説かれています。
「お前が救われてくれなければ、私は仏と呼ばれる資格がない。《
と、私たちに働き通しに働いて下さっているのが、仏さまの智慧と慈悲の活動なのですね。
「昼は ひねもす 夜は夜もすがら 若上生者と せまりくる《と味わわれた方もおられます。
「お前が苦しいと、私も苦しい、お前が幸せならば、私も幸せなんだ。《と、私と一体の智慧と慈悲が阿弥陀さまであります。
私が居るところには、どんな所であっても、どんな時であっても、仏さまが、救いの働きを活動されているのですね。
「私たちの為の仏様の救いの働き《
「私でも、仏さまに見捨てられていない《
仏さまに導かれつつ、人生を、一人じゃない、仏と共に、歩ませて頂いている、と目覚めさせて頂きたいものです。
坂村真民さんの詩を紹介させていただきます。
一如の世界
坂村真民
雨が降っていたら
雨の中を歩けばいい
風が吹いていたら
風の中を行けばいい
苦しいことがあったら
苦を負うてゆけばいい
負うてゆくうちに
苦が苦でなくなるだろう
そしたら別の世界が開けてくる
雨にも風にも
苦にもとらわれない
明るい一如の世界が
あなたを救ってくれるだろう
仏性現前
坂村真民
柿は柿で喜んでおり
梨は梨で喜んでおり
栗は栗で喜んでおる
うまかろうと
しぶかろうと
ほめられようと
くさされようと
彼等は大地に根をおろし
太陽のもと
花を咲かせ
實をみのらせ
罣礙(けげ)なく
葉を茂らせている
仏性現前とは
まさに彼等なるか
隠れ石
坂村真民
築城で
一番大事なのは
表に出る石でなく
隠れ石であり
これが城の運命を
左右すると言う
人間でも同じく
眼に見えない
神仏の信仰が
その人の一生を
守り導いて行く
ああ
見えないものを
見る眼を持とう
あとから来る者のために
坂村真民
あとから来る者のために
田畑を耕し
種を用意しておくのだ
山を
川を
海を
きれいにしておくのだ
ああ
あとから来る者のために
苦労をし
我慢をし
みなそれぞれの力を傾けるのだ
あとからあとから続いてくる
あの可愛い者たちのために
みなそれぞれ自分にできる
なにかをしてゆくのだ
『ご清聴頂きまして、有り難うございました。 称吊』
☆☆法語☆☆
*今日という一日は
過去に出会ったこともなく
未来に再び出会うこともない日
しかも、
すぐ昨日になる「今日《だから
出会ってよかった今日にしよう。
*私が、毎日食べているものは、
個や麦、野菜や果物、魚も肉も、
みな自分の命を生きていたんだね
私は、それらの多くの命
をいただき、支えられているんだ
ね。
【寺川幽芳】
ようこそ、お聴聞下さいました。有難うございました。合掌
最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え《の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。
「今ここでの救い《
念仏
ねんぶつ
の
教
おし
えに あうものは、いのちを
終
お
えて はじめて
救
すく
いに あずかるのではない。 いま
苦
くる
しんでいるこの
私
わたくし
に、
阿弥陀如来
あみだにょらい
の
願
ねが
いは、 はたらきかけられている。
親鸞聖人
しんらんしょうにん
は
仰
おお
せになる。
信心
しんじん
定
さだ
まるとき
往生
おうじょう
また
定
さだ
まるなり
信心
しんじん
いただくそのときに、たしかな
救
すく
い にあずかる。
如来
にょらい
は、
悩
なや
み
苦
くる
しんでいる
私
わたくし
を、 そのまま
抱
だ
きとめて、
決
けっ
して
捨
す
てる ことがない。
本願
ほんがん
の はたらきに
出
で
あう そのときに、
煩悩
ぼんのう
を かかえた
私
わたくし
が、
必
かなら
ず
仏
ほとけ
になる
身
み
に
定
さだ
まる。
苦
くる
しみ
悩
なや
む
人生
じんせい
も、
如来
にょらい
の
慈悲
じひ
に
出
で
あうとき、 もはや、
苦悩
くのう
のままではない。
阿弥陀如来
あみだにょらい
に
抱
いだ
かれて
人生
じんせい
を
歩
あゆ
み、 さとりの
世界
せかい
に
導
みちび
かれて いくことになる。 まさに
今
いま
、 ここに
至
いた
り とどいている
救
すく
い、 これが
浄土真宗
じょうどしんしゅう
の
救
すく
いである。
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