今月の・住職の法話

平成24年9月「法界の風」


以前に、ある信者の同行からの年賀状に、

法界ほっかいの風 涼し ただ仰ぐのみ 伏すのみ』

という言葉が書いてありました。

法界ほっかい』という言葉は、「全宇宙」「あるがままの理法の世界」という意味だそうです。

「ただ仰ぐ」とは、どういう意味でしょうか?

仏さまのこころを仰ぐという意味でしょう。

「ただ伏すのみ」とは、どういう意味でしょうか?

自分の煩悩の日暮を恥じて、み仏のご照覧の前に「ただ伏すのみ」なのでしょう。

その方も、もう既に往生されて、何年にもなりますが、信者の言葉というものは、

折りにふれ、ふいに、思い出したりしますね。決して色褪せないような気がします。

その方は、又、生前に『説教は、仏法は、讃嘆さんだんなんだと、感じた』ということを言われていました。

讃嘆さんだんとは、俗に「ほめること」ですが、「仏さまの徳を讃嘆する」ことです。

特に「ほめること」に重要な意味の存することは、逆に仏教では、他者の悪口を言うことを戒められているからでしょう。

仏教の十悪の中でも、悪口あっく両舌りょうぜつ妄語もうご綺語きごと、口で犯す罪がもっとも多い。

それは他人を害することであり、すべての争いの原因となる。

それ故に、逆に「ほめること」には、重要な意味を持ち、特に仏徳ぶっとく讃嘆さんだんすることが行とされている。

「ほめる」ということは、相手の怒りをほぐすものですが、真実に「ほめる」ということは、凡夫では、 不可能なことです、と龍樹菩薩りゅうじゅぼさつの『大智度論だいちどろん』にいわれている。

というのは、自らが相手に対し、好意的であれば、十のものは二十に倍増し、また、逆に、悪意的であれば、十のものはマイナス十と値下げすることになる。

それ故、貪欲とんよく瞋恚しんに【怒りのこと】の煩悩ぼんのうの存する限りは、十のものは十のままという、如実にょじつ讃嘆さんだんすることは不可能である。

また、称名しょうみょう讃嘆さんだんといわれる。

称仏六字しょうぶつろくじといふは、南無阿弥陀仏の六字をとなふるなり、即讃仏そくさんぶつといふは、すなわち南無阿弥陀仏をとなふるは ほめたてまつる ことばになるとなり」と
尊号真像銘文そんごうしんぞうめいもん』にあります。
この文によると、称名しょうみょうは、そのまま讃嘆さんだんの意味となります。

私が称名しょうみょうし、仏さまのお徳を讃嘆さんだんさせて頂いているのは、私の智慧や、力でないことが、よくわかります。まさしく、この私が仏さまを「ほめる」ことをさせているのは、仏さまのお力以外にあり得ないということが、味わえ、有難いことです。

一多證文いったしょうもん』というお聖教しょうぎょうに、


「仏さまの功徳くどくは、深く、広くして、海の如く、如何いかなる衆生しゅじょうをも、嫌わず、さはりなく救われて、仏の功徳くどくと同じものに、なしたもうこと、百千の川水が海に入って、同一の味となるようなものだ」
と、説かれています。

如何いかなる衆生しゅじょうをも、嫌わず、さはりなく救われて、仏の功徳くどくと同じものに、なしたもう、そういう、全ての衆生しゅじょうに対して、平等の慈悲というものが、人間にあるでしょうか?

仏さまの尊いところは、そういうところにあると、しみじみ感じ、思わず、仏さまに感謝し、仏さまのお徳をほめたたえるようになるのも、仏さまの働きのおかげなのでしょう。

「私のような愚か者を、親さまなればこそ、本願力なればこそ」と味わわれた方がおられます。

まことに『法界ほっかいの風 涼し ただ仰ぐのみ 伏すのみ』という、言葉のように、

私においては、仏さまの、「分け隔てない」働きに感謝しつつ、「私のような愚か者を、仏さまと同じ功徳くどくと同じものになしたもう」という、仏さまの慈悲の前に、ただ伏し、ただ仰ぐのみであります。

仏さまの心に対しての疑いの心は無くなっても、日々の煩悩は、依然として、激しく、二十四時間、煩悩ぼんのうに、さいなまれ続けている状態ですが、

ただし、その煩悩ぼんのうの中に於いても、往生おうじょういては一点の疑いもなく、明らかであると説かれたのであります。

正信偈しょうしんげ』の中に、「貪愛瞋憎とんないしんぞう雲霧うんむ」という言葉があります。

貪愛とんないは、むさぼる煩悩ぼんのうであって、

順境じゅんきょうに対して、貪欲とんよくし、愛着あいちゃくする心であり、

しんぞうは、いかりの煩悩ぼんのうで、逆境に対して、怒り憎む心である。それを雲霧うんむと説かれたのであります。

信心のところに疑いが破れるとともに、三世さんぜ業障ごっしょう消滅しょうめつせられる。

ただし、それは、法の徳から言われることであって、人間の事実には、煩悩ぼんのう念々ねんねんに起こる。

一多證文いったしょうもん』というお聖教しょうぎょうに、

凡夫ぼんぶといふは無明煩悩むみょうぼんのうわれらが身に みちみちて 欲もおほく いかり、はらだち、そねみ、ねたむ こころ おほく ひまなくして、臨終りんじゅう一念いちねんにいたるまで とどまらず、きえず、たえず と 水火二河すいかにがの たとへに あらはれたり』とある通り、これが人間の実情でありましょう。

しかし、一度、如来の光明におさめられて見れば、

如何いか煩悩ぼんのうしげくとも、往生おうじょうの大事に、一分の疑いなく、信仰生活なしさめられるのであります。

一多證文いったしょうもん』というお聖教しょうぎょうの次の文に、

『われら願力がんりき白道びゃくどうを一分二分やうやうつづあゆみゆけば 無礙光仏むげこうぶつのひかりの御こころに おさめとりたまふがゆへに、かならず安楽浄土あんらくじょうどへいたれば、弥陀如来みだにょらいとおなじく かの正覚しょうがくのはなに化生けしょうして大般涅槃だいはつねはんのさとりを 
ひらかしむるを むねとせしむべしとなり。』とあります。

このような、日々の煩悩ぼんのう雲霧うんむを省みては慚愧ざんぎし、かかる仏さまの法徳ほっとくあおいでは、喜ばせて頂く、ここに煩悩だけに終わらない信仰生活が与えられるのではないでしょうか。

仏さまに導かれる生活をさせて頂きたいものです。今日も一日、明るくいきましょう。

南無阿弥陀仏   合掌


最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え」の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。

「今ここでの救い」

 念仏ねんぶつおしえに あうものは、いのちを えて はじめて すくいに あずかるのではない。 いま くるしんでいるこの わたくしに、 阿弥陀如来あみだにょらいねがいは、 はたらきかけられている。
親鸞聖人しんらんしょうにんおおせになる。
 信心しんじん さだ まるとき 往生おうじょうまた さだまるなり
 信心しんじん いただくそのときに、たしかな すくい にあずかる。 如来にょらいは、 なやくるしんでいる わたくしを、 そのまま きとめて、 けっして てる ことがない。 本願ほんがんの はたらきに あう そのときに、 煩悩ぼんのうを かかえた わたくしが、 かならほとけになる さだまる。 くるしみ なや人生じんせいも、 如来にょらい慈悲じひあうとき、 もはや、 苦悩くのう のままではない。 阿弥陀如来あみだにょらいいだかれて 人生じんせいあゆみ、 さとりの 世界せかいみちびかれて いくことになる。 まさに いま、 ここに いたり とどいている すくい、 これが 浄土真宗じょうどしんしゅうすくいである。





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