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2020年7月
第105話
朝事*
住職の法話
「あなたのままで
大丈夫
(
だいじょうぶ
)
《
毎日、テレビや新聞なとで、色々な痛ましい出来事が報道されています。
多くの方が苦しい目に会われていることに、胸が痛みます。
しかし、テレビや新聞などで、悲惨な光景が報道され、お気の毒と思いましても、中々、自分がそういう目に会うかも知れないということが思えない私がいます。
困っている人に対して、自分に出来ることをさせて頂きたいと思いながらも、本当に自分がその目に会うかも知れないと本気で思うなら、 もっと仏法の教えを真剣に聴聞し、仏法中心の生活をさせて頂かなければと思う次第です。
先徳の言葉に、次のような言葉があります。
「安心(あんじん)は、明日はないと思って、急いで聞かないといけない。仏法の勉強は、死んでもやり続けるつもりで、焦らず、ゆっくりやらなければならない。《
「焦らないといけない、急ぐべきこと《と「焦らず、ゆっくりとしていくこと《との両方が必要な世界が、上思議な仏法の世界みたいですね。
ある先徳は、仏法聴聞について、次のように言われました。
「道心の中に餌食(えじき)あり《という言葉がある。
「仏法なんかやっていたら、食べていけないじゃないか。私にも生活がある。仏法聴聞なんかやっておれない。《ということをよく言う人がいる。
「仏法聴聞に一生懸命精進していたら、仏様が、お粥(かゆ)を、すすりながらでも、何とか食わして下さる。何とか、仏様が生かして下さる。 そういう信念で、仏法聴聞に精進することが大事だ。《と言われたのを思い出します。
又、「仏法聴聞していたら、必ず行き詰るはずだ。しかし、仏法聴聞しながら、自分が行き詰まっていることに気が付かない人がいる。《
「しかし、そういう人は死ぬ前に『こんなことでいいのだろうか?阿弥陀様は本当にこんな私を救って下さるのだろうか?』と行き詰る。《 とも言われました。
「後生の一大事《ということを、蓮如上人は説かれました。
解決すべき課題が人間にはあるのだと警告されているのでしょう。
蓮如上人の時代にも、疫病や、自然災害が起こって、大変な時代だったそうです。
そんな厳しい時代に、難しい事を言ったって、伝わりません。
文字も知らないような一般庶民に、よくわかるように、真宗の教えを説き広めて下さいましたのが蓮如上人の偉大な功績ですよね。
大変なご苦労は、全て「私たちが、真に救われてほしい。《という念願があったからですよね。
そんなご苦労をして頂いた、蓮如上人の御恩は、はかり知れないほど大きいものがあると思います。
そんな緊迫した時代に説かれた、蓮如上人の言葉に、次のようなお言葉がございます。
『「往生は、一人一人のしのぎなり。一人一人に仏法を信じて後生をたすかることなり。余所ごとのように思うこと、且つはわが身をしらぬ事なり《と円如、仰せ候いき。』
(『蓮如上人御一代記聞書』172条)
「往生とは一人ひとりが、して解決していくものです。一人ひとりが、仏法を信じて後生の問題を解決していくことです。
それを他人事のように思っていることはわが身の大切なことが何かを知らないことだ。と円如様が言われました《という意味です。
また、「御文章《(蓮如上人)の中に、次のようなお言葉がございます。
「ことに在家の身は、世路につけ、また子孫なんどのことによそえても、ただ今生にのみふけりて、これほどに、 はやめにみえてあだなる人間界の老少上定のさかいとしりながら、ただいま三塗八難にしずまん事をば、つゆちりほどもこころにかけずして、 いたずらにあかしくらすは、これつねの人のならいなり。あさましというもおろかなり《
(「御文章《蓮如上人 第二帖目一通)
「今生のみにふけりて《とは、「目の前のことだけに心が捉えられてしまっている《という意味です。
「あだなる人間界《とは、「実を結ぶことの無い、意味なく過ぎていく人間界にだけに心が捉えられてしまっている。《という意味です。
「仏法とは無縁の世界や地獄・餓鬼・畜生の世界に沈んでいくわが身の行く末のことは露や塵ほども気づこうとしない。《と言われるのですね。
蓮如上人は私たちの生きざまを「あさましというもおろかなり《と嘆いておられます。
今日の私達は、「あさましい《とか「おろか《と自分を振り返ることの無いままに、日々、目の前のことに追われて、生活しているのでしょうか。
「あさまし《とは古語では「驚きあきれるばかりだ《「情けない《という意味です。
『われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか』という題の、ゴーギヤンという画家の、有吊な絵画があります。
人間として、問わずにおれない大きな問いというものなのでしょう。
そういう、問わずにおれない人間の深いところに持っている問いを『宗教的問い』と言うのでしょうね。
そして、その問いは一人ひとりが、真剣に問わねばならない問いなのですよね。
それを蓮如上人は、 「往生は、一人一人のしのぎなり。一人一人に仏法を信じて後生をたすかることなり。余所ごとのように思うこと、且つはわが身をしらぬ事なり《 と問題提起をされたのですね。
蓮如上人の時代は、緊迫感のある時代と言いました。
緊迫感ということで思い出す話があります。
ある格闘家が次のように言われていました。
「私も、強い相手と対戦するのは怖かったよ。正直、逃げれるものなら逃げたかったよ。
しかし、闘うという契約があるので、契約違反すれば刑務所に入らなければならない。
だから、逃げられない。だから、闘えたんだよ。
もし、私に逃げ道があったら、闘うことは出来なかっただろう。《と。
立ち向かうしかないから、逆に強くなれたのだというのですね。
少しでも余裕があると人間は駄目だ、弱くなる、ということなのでしょうか?
何か考えさせられます。
私自身は、大事な問題から、逃げてばかり、嫌なことは先送りしてばかりしているような気がします。
ある仏法の先生が言われました。
「自分の罪というものに対して、『自分の罪がどうなるのか?!』と悩む人間がいるだろうか?《
「お浄土は楽しいところだから参りたいと思うような人間は、自分の罪の解決の問題を忘れているのだ。《と。
確かに、そう言われてみると、返す言葉がありません。
日々の生活の中で、「私さえよければいい。今が楽しければいい。《と自己本位な浅ましい心で生きていることが思われます。
いいや、一日中、妄念ばかりで、仏さまと比べたら、太陽と蝋燭(ろうそく)くらい違う私の心ではないでしょうか?
そして、そんな自分の姿は、反省しないで、肯定して、ほっといて、他人の批判ばかりしています。
ある御講師さんがご法話で話されていました。
「電車に乗ったら、他の人が席に座れなくて立っているのに、座席に荷物を置いて平気でいた人がいた。
その人のことを、心の中で、さんざん責め批判した。そして、電車が駅で止まると、何と驚いたことに、自分が批判していたその人以外の人が、 その座席に置いてあった荷物を持って下車したのです。
私は恥ずかしかった。今まで、心の中で、さんざん、その人のことを、責め裁いていたけれど、荷物を置いていた人は別の違う人だった。《
その御講師さまの懺悔が、とても潔くて、聞いていて、さわやかだったのが印象に残っています。
私たちの目に見えているのは、一部分であって、私が、自分勝手に決めつけている世界なのでしょうか?
自分が見えていると思い込んでいる世界は、一部分であって、全世界ではないのですよね。
見えていない世界も実は存在しているのですよね。
この話は、本当に笑えない話、身につまされる話だと思いますね。
「自分の、この目で見たから正しい。《と思います。
しかし、ある講師の方は、「自分の目そのものが悪いと思うことはない。《「自分の目で見たから間違っているかも知れない。《と言われました。
自分の目は絶対に正しいということなんかないわけなのでしょうね。
毎日、心の中で、又、口にも出して、どれくらい他人のことを、自分勝手に批判して、責めていることでしょうか?
それも、全て、自分中心の思いや、自分の都合が描いた妄想の世界なのでしょう。
しかし、いくら、そう言われても、中々、直らないという性根(しょうね)を持っています。
しかし、あまり他人のことを言わないことですよね。一人一人、日々を懸命に生きているのですよね。
他人からはどう見えようと、本人は、それで精一杯生きているのですよね。
その人が一生懸命生きていることを認めることが大事なことですよね。
それに、責めるのは、「私の方が上だ。《ということを言いたいがために、 相手のことを、責め貶すということを、無意識にしている場合があるそうですね。
自我というものは、どこまでも自己主張する性質があるのだそうです。
相手を否定すると、「自分も否定されるのではないか?《という恐怖が起こるのだそうですね。
結局は、相手を否定すると自分も否定されることになるのでしょうか?
共命鳥(ぐみょうちょう)という極楽の鳥は、顔は二つで、体は一つ、「相手を殺す道は、自己を殺す道《と教えています。
しかし、自分の意に沿わないと、心の中で相手を殺していることもあります。恥ずかしい事です。恐ろしい事です。
仏教の唯識(ゆいしき)などの教えは、そういう人間の心を、実に深く見つめ、詳しく説いてあるようです。
学んで行くと、思い当たることばかりで、恐ろしくなります。
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☆西本願寺HPの「教え入門 人生のヒント《の「はじめての浄土真宗《という項目に、次のように説かれています。
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浄土真宗とは
浄土真宗は、出会いの仏教
人生は出会いの連続です。
誰かとの出会いによって世界が広がったり
何かとの出会いによって新しい自分に気がついたり
苦しみとの出会いによって深く傷ついたり......。
出会いによる、よろこび、悲しみを繰り返しながら
私たちは今日も生きています。
浄土真宗は、そんな出会いを大切にする仏教です。
特に大切にしているのは、阿弥陀あみださまという仏さまとの出会いです。
阿弥陀さまは私たち一人ひとりを
「かけがえのない尊いいのち《とみてくださっています。
どんなことがあっても寄り添ってくださる仏さまです。
阿弥陀さまとの出会い。
それは、阿弥陀さまに見まもられている
尊い自分自身に出会うことでもあるのです。
阿弥陀さまと出会えるという、希望。
出会えたという、よろこび。
今、この時代を生きる私たちもきっと、感じることができるはずです。
居場所に出会った親鸞聖人
あなたに居場所はありますか。
普段なかなか気づかないことですが、私たちは、家庭や学校、あるいは社会の中で自分を受け入れてくれる「居場所《があるから、頑張ることができていると言えます。
でも、頑張りたくても頑張れないときもありますよね。
元気そうに見える人でも、もしかしたら孤独や寂しさにさいなまれて「居場所《を失っているかもしれません。
そんな思いを抱いてしまったとき、どのように生きていけばよいのでしょうか。
親鸞聖人しんらんしょうにん(=親鸞さま)も、自分の居場所に出会うために大変な努力をされた一人です。
そして、その道のりの末に「阿弥陀さま《という仏さまに出会われました。
阿弥陀さまは、出家して修行に励んだり、厳しい規律を守る生活を送ったりすることができない人であっても、どんなに辛いことを抱えている人であっても、 いのちあるものすべてをそのままに受け入れ、すくいに導いてくださることを誓われた仏さまです。
そんな阿弥陀さまに出会われ、阿弥陀さまとともに親鸞さまは仏道を歩まれました。
そして、阿弥陀さまの教えを私たちにわかりやすく伝えるために、浄土真宗という仏教を開かれました。今から約850年前、鎌倉時代のことです。
ありのままの自分との出会い
親鸞さまは、在家出家や老若男女を問わず、さまざまな人と出会いながら仏道を歩んでいかれました。
そうするうちに、物欲や誘惑といった"煩悩(ぼんのう)"に右往左往する人間の姿を目の当たりにします。
欲望のためには人をも傷つけてしまう鬼のような恐ろしい心を持っているのが人間であり、親鸞さま自身のことだと気づかれます。
それは、今を生きる私たちに置きかえても何ら変わりありません。「ブランドのバッグがほしい《、「新しいスマホがほしい《、「もっとフォロワーが増えてほしい《......。
このような願いは、自己中心的な心から日常的に多くの人の心に湧き起こっています。
目先のことに一喜一憂して「迷いの世界《で欲望にふりまわされ、苦しむ姿そのものです。
このような私たち一人ひとりをすくおうとされているのが阿弥陀さまなのだということに、親鸞さまは気づかれました。
「あなたのままで大丈夫《。阿弥陀さまとの出会い
鎌倉時代であっても今の時代であっても、生きづらさを感じ、孤独に苦しむ人に向かって「あなたのままで大丈夫《と、 居場所となって本当の安心を届けて支えてくださるのが阿弥陀さまです。
人は社会の中で、大勢の人と関わりあいながら生きています。
ときには「誰ひとり、私のことを気にかけてくれない、わかってくれない《と思うこともあるでしょう。
「何もかもうまくいかない《と落ち込むこともあるでしょう。
人との付き合いが苦手でも、心ない人から「負け組《なんて言われようとも、阿弥陀さまは私たちのことを一人ひとり大切に見まもってくださっています。
「いつも私がそばにいるよ《と、ありのままのあなたを認めてくださるのが阿弥陀さまなのです。
(西本願寺HPより)
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親鸞聖人の書かれた、「教行信証《(きょうぎょうしんしょう)の序文(「総序[そうじょ]の文[もん]《)の冒頭の言葉に次のように書かれています。
「無碍(むげ)の光明は無明(むみょう)の闇を破する慧日(えにち)なり《
「何ものにもさまたげられることのない阿弥陀仏のひかり(光明)は、真実の智慧がない人間の闇を破る太陽である。《という意味です。
阿弥陀仏の智慧の光明は、人間存在の奥底にある深い闇を破る働きを持つものであり、譬えるならば太陽の光のようである、と親鸞聖人は述べられています。
仏法では、「無明《(むみょう)ということを説きます。
無明(むみょう)とは、「無知、迷いの意味で、真理、智慧の光が届いていない状態《です。
「真理(光明)があるということを知らない状態で、何も見えない闇の中にいる状態《です。
無明(無知)であるために、思い悩み、煩悩(ぼんのう)が生じ、煩悩があるが故に、苦しみが生じると説かれています。
親鸞聖人の御和讃(ごわさん)に次のような無明という言葉がある御和讃がございます。
「無明の闇を破すゆゑ
智慧光となづけたり
一切諸仏三乗衆
ともに嘆誉したまへり《
(「和讃《親鸞聖人)
この和讃について、利井明弘師は次のように言われています。
『このご文に、念仏を信じるこころを得しむる光が智慧光であると釈されています。
続いて、この信心をいただいて仏になるべき身とさせていただくとは、愚痴に代表される貪瞋(とんじん)などの煩悩(ぼんのう)による行為によって、 堕ちなければならない地獄の果を招くことはないといわれているのです。
ご和讃の第一句に「無明の闇《(むみょうのあん)を破すとありますが、これは、信心をいただくということなのです。
無明という言葉には二つの意味があって、一つは疑無明(ぎむみょう)といいます。
この疑無明は、阿弥陀さまのお智慧を疑う無明です。
もう一つは根本無明で、愚痴などの私たちの煩悩のことを指します。
この二つの無明を、光のない闇に喩(たと)えて、無明の闇といわれているのです。
愚痴だらけの私を救うために
信心が得られないといって、苦しんでいる方がおられます。こんな方に父はよくこんな話をしていました。
「部屋の中の闇を取ってから光を入れようと思いなさんな、光の方に闇を破るはたらきがあるんですよ。《
島根県の青屋(あおや)の源左同行(げんざどうぎょう)が、「お念仏をいただいたら世界がホンマになっただいなぁ《といったそうですが、暗い闇が晴れて、 素晴らしい世界にで遇(あ)った言葉でしょう。
又、曾祖父の鮮妙師(せんみょうし)には「提灯(ちょうちん)の紋所(もんどころ)《という話が残っています。
「信心をいただけば、提灯(ちょうちん)にあかりが入ったようなもんじゃ、闇が去って明るくなるが、 自分の自性(じしょう)の紋所(もんどころ)もはっきりするぞ《
この提灯(ちょうちん)の喩(たとえ)には、先の親鸞聖人のお言葉の二つの意味がこめられています。
一つは仏さまのお智慧をいただいて、疑いの闇がはれたということです。
これは明信仏智(みょうしんぶっち)といって、浄土真宗の信心のことです。
もう一つは、その智慧の光明によって、煩悩具足(ぼんのうぐそく)の自性(じしょう)の紋所(もんどころ)が照らし出されるということです。
これも曾祖父の話で、近所の同行が久し振りに寺にきました。
「どうです、聴聞されてなさるかな《
「はい、あちこちの法座に参らせていただきますが、困ったことに、まだ煩悩がボチボチ出ますのです《
これを聞いて「あんたは煩悩がボチボチしか出んのですか《と、鮮妙(せんみょう)は吃驚仰天(びっくりぎょうてん)したそうです。
最近、「有難い《という人はまだいらっしゃるようですが「おはずかしい《「もったいない《と喜ぶ人が減ったように思うのですがどうでしょう。』
(『永久の光に』(十二光讃法話)利井明弘師 探求社)
確かにそうだなあと、何一つ返す言葉がありませんです。
称吊
『ご清聴頂きまして、有り難うございました。 称吊』
☆☆☆法語☆☆☆
*もとより、罪業に形なし、妄想の為せるなり
*ただ念仏のみぞ、まことにておわします
*去るべき業縁のもよほせば、いかなるふるまひもすべし
*どのような悪人でも念仏だけで往生できる
*一人居て喜ばば二人と思うべし。二人居て喜ばば三人と思うべし
*ひとのいのちみじかくもろし
*浄土真宗に帰すれども真実の心はありがたし 虚仮上実のわが身にて清浄の心もさらになし
親鸞聖人のお言葉
ようこそ、お聴聞下さいました。有難うございました。合掌
最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え《の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。
「今ここでの救い《
念仏
ねんぶつ
の
教
おし
えに あうものは、いのちを
終
お
えて はじめて
救
すく
いに あずかるのではない。 いま
苦
くる
しんでいるこの
私
わたくし
に、
阿弥陀如来
あみだにょらい
の
願
ねが
いは、 はたらきかけられている。
親鸞聖人
しんらんしょうにん
は
仰
おお
せになる。
信心
しんじん
定
さだ
まるとき
往生
おうじょう
また
定
さだ
まるなり
信心
しんじん
いただくそのときに、たしかな
救
すく
い にあずかる。
如来
にょらい
は、
悩
なや
み
苦
くる
しんでいる
私
わたくし
を、 そのまま
抱
だ
きとめて、
決
けっ
して
捨
す
てる ことがない。
本願
ほんがん
の はたらきに
出
で
あう そのときに、
煩悩
ぼんのう
を かかえた
私
わたくし
が、
必
かなら
ず
仏
ほとけ
になる
身
み
に
定
さだ
まる。
苦
くる
しみ
悩
なや
む
人生
じんせい
も、
如来
にょらい
の
慈悲
じひ
に
出
で
あうとき、 もはや、
苦悩
くのう
のままではない。
阿弥陀如来
あみだにょらい
に
抱
いだ
かれて
人生
じんせい
を
歩
あゆ
み、 さとりの
世界
せかい
に
導
みちび
かれて いくことになる。 まさに
今
いま
、 ここに
至
いた
り とどいている
救
すく
い、 これが
浄土真宗
じょうどしんしゅう
の
救
すく
いである。
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