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2020年6月
第104話
朝事*
住職の法話
「
嬉
(
うれ
)
しき時も悲しき時も《
先日ある方から、絵葉書をいただきました。それは本願寺の御影堂の余間の蓮池の絵が描かれている絵葉書でした。
「本願寺にお詣りしました。さすがに人は少なかった。静かにお念仏称えることができました。《おおよそ、そういうお手紙でした。
暑中見舞いや年賀状などは頂くことはありましたが、「本願寺に詣りました。《というようなお葉書をいただいたのは初めてでした。
とても新鮮な思いがしたと共に、こういう手紙を頂き、有難いと思いました。
本願寺の御影堂の余間には、蓮の花が描かれているのですね。とても格調高い絵画ですね。泥の中に咲く蓮の花、お念仏のようですね。
本願寺で一人静かにお念仏称える、素晴らしいことではないか、それこそ信心の姿と仰ぐ次第です。
「われらは 仏の子どもなり うれしきときも かなしきときも みおやのそでに すがりなん《(讃仏歌)
このような歌を聞かれたことはありませんか?仏教讃歌ですよね。
宗教教育は、子どもの頃が大事だと言いますが、ある一人暮らしのお婆さんの家にお参りに行った時に、大きな声でその方は歌われました。
「ああ み仏 ああ み仏 われを 愛す《(仏教讃歌)
ハッキリした声で、歌われました。
この方は、寺の法座には、よく参られ、御講師の真下の、一番前の席に座って聴聞しておられました。
講師の言われる一言一言に、一つ一つ相槌を打つように、首を縦に振りながら聞いておられました姿を印象深く思い出します。
この方は、晩年は老人施設に入られ、会うことがなくなりました。寺に参られることもなくなり、平成20年に90代後半で、御往生されました。
通夜のときに、「この方は、本当によく仏法を聴聞された方です。《と訴えたように思います。
と言いますのは、残された方も、その意志を受けて頂きたいものだと願ったからでした。
一番 前の席で、一生懸命に、御講師さまのご法話を聴聞されていた姿を思い出すだけで、その聴聞される姿がそのまま教えだと思います。
二人の子供のうち、一人を若くして亡くされ、主人を見送り、一人暮らしになり、お寺に聴聞に来るのが楽しみのようでした。
「お寺はいくら年取っても来れるから、ずっと来たい。《というようなことを言われていたように思います。
法座の全席 一番前で聴聞されていました。それから年取られ、老人施設に入られたのでした。
一人息子は、他県に在住されていました。
その息子さんは、老人施設に、再々見舞いに来られていたようです。
一人暮らしになられ、ご講師の真下の席で、一言一言頷くように聞いておられたけれど、仏様のみ教えを拠り所として、生きておられたんだなあと改めて思います。
仏教では人の一生を『仏説無量寿経』の中に「独生独死(どくしょうどくし)独去独来(どっこどくらい)《
とお釈迦様がお示し下さっております。
これは「独り生じ独り死し、独り去り独り来りて《ということです。
又、人は誰しも最終的に死と直面しなければなりません。
人間の実相というものは、実際の実人生というものは、実に孤独なものだと感じます。
日頃、賑やかに暮らしている時は、「私には家族がいる。私には友人がいる。《と思って、それがいつまでも続くような感じがありますけど、、。
しかし、人生の実相は「諸行無常《と言われますように、「仏法には明日というこはあるまじく候。《という蓮如上人の厳しい言葉があります。
いつまでも、このままであってほしいという願いを、容赦なく断ち切るような実に厳しい言葉だと思います。
私の恩師が言われていました。その方は大病をされて、その時の経験を次のように語られました。
「私は大病をして、見るものが真っ黒に見えた。世界が真っ黒になった。
見る世界が、世の中が、まるで、色彩が消えたような感じになった。《と言われていました。
それからは、「お前たちも、自分の本当にやりたいことをやれ。《というようなことを言われていたように思います。
「自分の命が本当に大切なら、世間体ばかり気にすることはやめて、本当に生きたいように生きろ。《
というメッセージだったように思います。
もちろん、自分勝手に、気儘にやりたい放題に、享楽的に、自己中心的に生きろという意味ではないですよね。
自分の命というものを、真剣に見つめた人間のメッセージなわけですよね。
命の厳しさに気付いた時に、そこに今日一日、いや、今・ここの生き方が、自然と問い返されていくことになるのでしょう。
一度、自分の命の実相を垣間見た人間は、そのことが、どこかに残って、その人の人生観に大きな影響を与えるものなのでしょう。
個人的なことを言いまして、恐縮ですが、私の父親は、平成5年に62歳で往生しました。
50歳から62歳まで、7つの病院に入院し、脳の手術などしたりしました。元気な時は、人の倊 動いていたような活動的な人間でした。
そんな父が、入退院、そして手術をしたり、晩年は歩行も出来なくなり、元気な頃に比べると全く別の人生になってしまったわけです。
その間の母の苦労は大変なものがあったわけですね。
父の看病もしなければいけないし、寺の仕事もしないといけませんし、息子はまだ若いし、頼りないですし、そんな中で、とにかく母は大変苦労したようです。
また、治る病気の人を、治るまで一時的に、看病することと、元気に回復しない病人を看病することは、自ずとニュアンスが大分違ってきますよね。
辛いので、気がおかしくなりそうだったと 母が述懐したのを何回も聞きました。
そんな時に、母を支えたのは、「ご恩《ということだったそうです。
「父には母は今まで色々とお世話になってきた過去がある。
今、こうして主人を看病しているけれど、過去の父のご恩返しなんだと思い直すことができたときに、生きる力が湧いてきた。
仏様のお陰で、このように考えることが出来たのだ。《
そんなことを言っていたように思います。
御恩を考えた時に、何とか正気を保つことが出来て、看病を続けることができた、というのですね。
ご恩に気付くことが、苦悩している人間を支える力になっているという事実を思わせて頂くわけです。
まあ、人それぞれで、自分の家族内のささやかな経験を絶対視して、他人に押しつける気はありませんが、御恩ということについて、 共に考えてみたいと思うのですね。
「ご恩《ということは、仏教ではとても大切にすることですよね。
「教章《の中に、《生活》というところがあり、次のようにあります。
《生活》
「親鸞聖人(しんらんしょうにん)の教(おし)えにみちびかれて、阿弥陀如来(あみだにょらい)のみ心(こころ)を聞(き)き、
念仏(ねんぶつ)を称(とな)えつつ、つねにわが身(み)をふりかえり、
慚愧(ざんぎ)と歓喜(かんぎ)のうちに、現世祈祷(げんぜきとう)などにたよることなく、
御恩報謝(ごおんほうしゃ)の生活(せいかつ)を送(おく)る。《
と、ここに「御恩報謝(ごおんほうしゃ)の生活を送る。《と示されています。
浄土真宗の生活は、御恩報謝の生活なんだと説かれています。
これは、仏様のご恩ですよね。
「私のような煩悩だらけの、どうしようもない凡夫を、そのまま救うと、呼びかけられている。
南無阿弥陀仏の呼び声となって、いつでも、どこでも、誰にでも、その光が注がれている。《
その仏様の御恩ですよね。
その仏様の御恩を思って、今日の命を、今の命を、御恩報謝の生活をさせて頂くということですよね。
仏様のご恩を思う生活が如何に力強いものか、今一度考えてみたいと思った次第です。
考えてみれば、日々の生活は、御恩報謝というよりも、煩悩の生活と言った方が当たっている、そんな愚かしい生活です。
しかし、それだけではない、仏様の光が注がれている。
そこに気付かせて頂かなければいけないと思う次第です。
「重荷せ負うて 山坂すれど 御恩おもえば 苦にならず《という、お軽という妙好人の信心の歌もあります。
六連島(むつれじま)に、お軽(かる)という妙好人がいました。
妙好人お軽さんは、享和元年(1801年)に六連島で生まれた。
少女時代からおてんばぶりを発揮し、娘時代には気性の激しい性格だったそうです。
六連島の青年たちは「お軽のところには養子に行ってはならない《と言い合っていたというくらいだったそうです。
やがて19歳になって、幸七という28歳の青年を養子として迎え、お軽は、懸命に夫に仕えました。
しかし、夫婦に破局が訪れました。下関や北九州に野菜の行商に出た夫の幸七に愛人ができ、お軽は嫉妬に怒り苦しむことになったのでした。
やがてお軽さんは熱心に聞法するようになられました。
35歳になったお軽さんは、風邪がもとで生死の境をさまよった病床で自分の無力さを痛感し、如来さまのお慈悲がしみじみと味われてきたのでした。
この頃から、お軽さんの口から信心の喜びが次々と歌となって生まれてきたのでした。
妙好人と言われる方々は、聞法『もんぽう』「仏法を聴聞すること《に苦労されています。
浄土真宗には修行はないと言われますが、先人たちは、仏法を聞くことに努められました。
「聞くに始まって、聞くに終わるのが浄土真宗。《と言われるゆえんです。
ある浄土真宗の講師の方は言われました。
「私の祖母は加賀門徒と言われる信者で、『聞き開きなさいよ。』ということを、よく言っていた。
『せっかく浄土真宗の教えを聞くご縁が恵まれたのだから、最後まで聞き開きなさいよ。聞き抜きなさいよ。』と言っていました。
自分も、信者であった祖母の感化は大きい。《としみじみ言われていました。
誰れも、自分では、中途半端だとは思っていないのですよね。しかし、そこに落とし穴があるのでしょうね。
そのへんに、聞法の難しさ、厳しさがあるわけなんでしょうね。
しかし、『教えを聞き開いてくれ。聞き抜いてくれ。』という言葉の裏に、『それが一番幸せなことなんだよ。』という、慈悲心のようなものを感じます。
それと同時に『後生の一大事なんだよ。』という忠告の意味合いも感じますね。
お軽さんの話に戻ります。
それにしても、主人の浮気に苦悩した、気は強かったけれど、純情な、お軽さん、どんなに辛かったことでしょう。
苦悩の中から、仏法に救いを求めて、聞き抜いた姿勢には頭が下がります。
当人にすれば、そうするしかなかったのかも知れませんが、中々できないことではないでしょうか?
仏法に救いを求める気持ちが起こることも、仏様からの働きなのでしょうか?
文字は一字も読み書きできないお軽さんだったそうですが、歌が思い浮かぶと西教寺へかけこんでは現道住職に筆録してもらい、 奉公に出ている子供達にも、その歌を送られたそうです。
やがて夫の幸七や6人の子供たちともそろって法座に参詣するようになり、和やかな念仏一家をつくりあげたそうです。
お軽さんは、56歳のとき、最後を遂げられたのですが、息を引き取る数か月前に歌を残しています。
「亡きあとに 軽を尋ぬる人あらば 弥陀の浄土に 行ったと答えよ 《という歌を残されています。
お軽さんの歌を少し紹介させて頂きます。
「聞いてみなんせ まことの道を 無理な教えじゃ ないわいな《
「きのう聞くのも 今日また聞くも ぜひに来いとの および声《
「高い山から お寺を見れば 御恩とうとや 宝やま《
「まこと真実 親さまなれば なんのえんりょが あるかいな《
「己(おの)が分別 さっぱりやめて 弥陀の思案に まかしゃんせ《
「わしが心は 荒木(あらき)の松ヨ 艶(つや)のないのを おめあてに《
「思案めされや いのちのうちに 生命(いのち)おわれば 後思案《
「宝山には 足手を運ぶ むなしがえりを せぬがよい《
味わい深い歌です。心して味わいたいものです。
「われらは 仏の子どもなり うれしきときも かなしきときも みおやのそでに すがりなん《(讃仏歌)
嬉しい時だけ喜ぶのなら、誰れでも出来ます。苦悩が無くなって喜ぶのなら、誰れでも出来ることです。
泣いた涙の中から、御恩を喜ぶ世界が、浄土真宗の教えを聞く者に恵まれる法悦というものなのでしょう。
「うれしきときも かなしきときも《と歌詞にございます。
「嬉しい時も、悲しい時も、変わらない、拠り所《というものを求めることが大事ではないかと思うのです。
「根無し草《という言葉がありますが、大地にしっかり根をおろして生きていきたいものです。
親鸞聖人は、お手紙の中で、次のように言われています。
『ひとびとにすかされさせたまはで、御信心たぢろかせ
たまはずして、おのおの御往生候ふべきなり。ただし、
ひとにすかされさせたまひ候はずとも、信心の定まらぬ
人は正定聚に住したまはずして、うかれたまひたる人
なり。』
(文応元年十一月十三日 善信[八十八歳]乗信御房)
(親鸞聖人御消息)
「信心の定まらない人は、うかれたまいたる人だ。《と言われているのですね。
『うかれたまひたる人』とは、「心が落ち着かない人。 上っ調子の人。根無し草。人生を空しく過ぐる人《
という意味があるそうです。
「受けがたい人身を受けながら、仏法に遇わず、人間としての生まれ甲斐を見出せぬ人。《
という意味も含まれているそうです。
「うかれたまひたる人なり《という言い方には、何か心に響くものがありますよね。
根無し草のように、真の拠り所を発見しないままで、生きているのは、「うかれたまひたる人なり《ということなのでしょうか?
真の拠り所を発見していないのは、「うかれている《という状態だと、親鸞聖人は指摘されているのですね。
親鸞聖人は『本典』に次のように述べておられます。
「心を弘誓(ぐぜい)の仏地に樹(た)て、念(おも)いを難思(なんじ)の法海(ほうかい)に流す《
と述べておられます。
これは、凡夫の心の上に落ち着き安心するのではありません。
「まかせよ《の弥陀(みだ)の喚(よ)び声を聞き、その弘誓(ぐぜい)の仏地(ぶっち)の上に私の心を置き、安心するのです。
私の役にも立たない念い・計らいを難思の法海に流して、全く顧みないことなのです。
どこに立って、いかに生きるかを発見したよろこびをもって述べられた言葉ですよね。
阿弥陀仏の本願の世界が、「仏地《「法海《というように、広やかな大地と海で表されていますね。
広い世界を知るということは、同時に自分がどれほど狭い世界で生きていたかに気づくことでもあります。
広やかな世界に出遇ってみて初めて、自分が狭い物の見方にとらわれていることを知ることが出来ます。
「心を弘誓(ぐぜい)の仏地に樹(た)て、念(おも)いを難思(なんじ)の法海(ほうかい)に流す《
という親鸞の言葉を味わわせて頂きながら、
「嬉しい時も、悲しい時も、変わらない真実のよりどころは何なのか?《
ということを、味わわせて頂きたいと思った次第です。
スイスにジャン・エラクルという念仏者がいました。
真剣な求道の過程で、釈尊の教えに遇い、さらに親鸞聖人の教えを知って、浄土真宗に帰依された方です。
そしてジュネーブに信楽寺というお寺を作って、多くの人々に浄土真宗の教えを伝えて来られた方です。
その著書の中に、ジャン・エラクル師はみずからの、浄土真宗とのご縁を詳しく述べられています。
それによりますと、親鸞聖人の教えを学ぶにつれて、ジャン・エラクル師がもっとも強く心を惹かれるようになったのは、
「正信偈《の次の言葉だったそうです。
『極重の悪人はただ仏を称すべし。
われまたかの摂取のなかにあれども、煩悩、眼を障へて見たてまつらずといへども、大悲、倦きことなくしてつねにわれを照らしたまふといへり。』 (『正信偈』)
そして、「これは自分のために説かれたものだとしか思えない。《と言われるのです。
著書の中で、ジャン・エラクル師は、「煩悩におおわれ、怒りっぽく、享楽を好み、愚かで傲慢な自分であるにもかかわらず、 そういう私を包み込む大慈悲がありました。《と書いておられます。
「煩悩におおわれ、怒りっぽく、享楽を好み、愚かで傲慢な自分《とは、この私と、どこが違うというのだろう?
私もその通り同じではないか。そんなことを強く意識しました。
また、ジャン・エラクル師は、「自然《(じねん)という言葉が好きだそうです。
「自然《(じねん)とは、私の計らいを超えたことですよね。
私たちは、如来の大悲が、十方の世界を包み込んで、あらゆる人々を、常に照護しながら、救いとって離れたまわぬことを忘れない日暮しをしたいものでございます。
親鸞聖人は、和讃に、「摂取上捨《(せっしゅふしゃ)の仏様と讃嘆されました。
親鸞聖人は、摂取(せっしゅ)の左訓に
「ひとたびとりて永く捨てぬなり。
摂(せつ)はものの逃ぐるを追はへ取るなり。
セフハ オサメトル シュハ ムカエトル《
と書かれました。
親鸞聖人は御和讃の中にて、摂取(せっしゅ)の左訓にて、
「摂(せつ)はものの逃ぐるを追はへ取るなり《
と解説されておられます。
仏様に背を向けている自分の姿に、手をあわせ、念仏せしめて下さる摂取上捨(せっしゅふしゃ)の阿弥陀様のお徳・お働きをお喜びになられました。
ある和上は次のように言われたそうです。
「私は、顔も吊前を忘れていくかも知れない。
だが、私が忘れても、決して忘れない仏様がいらっしゃる。
親様がいらっしゃる。
後生の一大事の心配はないという話を聞かせていただいた。《
と摂取上捨(せっしゅふしゃ)の阿弥陀様のお心をお喜びになられました。
『ご清聴頂きまして、有り難うございました。 称吊』
☆☆☆法語☆☆☆
*たいくつな病室の窓に雨をいただく
*少しなら歩けて朝の光を入れる
*念仏の口が愚痴ゆうていた
*かあちゃんが言えて母のない子よ
*ずぶぬれて犬ころ
*若さとはこんなに淋しい春なのか
*念仏の白い息している
住宅顕信 俳句集「未完成《より
ようこそ、お聴聞下さいました。有難うございました。合掌
最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え《の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。
「今ここでの救い《
念仏
ねんぶつ
の
教
おし
えに あうものは、いのちを
終
お
えて はじめて
救
すく
いに あずかるのではない。 いま
苦
くる
しんでいるこの
私
わたくし
に、
阿弥陀如来
あみだにょらい
の
願
ねが
いは、 はたらきかけられている。
親鸞聖人
しんらんしょうにん
は
仰
おお
せになる。
信心
しんじん
定
さだ
まるとき
往生
おうじょう
また
定
さだ
まるなり
信心
しんじん
いただくそのときに、たしかな
救
すく
い にあずかる。
如来
にょらい
は、
悩
なや
み
苦
くる
しんでいる
私
わたくし
を、 そのまま
抱
だ
きとめて、
決
けっ
して
捨
す
てる ことがない。
本願
ほんがん
の はたらきに
出
で
あう そのときに、
煩悩
ぼんのう
を かかえた
私
わたくし
が、
必
かなら
ず
仏
ほとけ
になる
身
み
に
定
さだ
まる。
苦
くる
しみ
悩
なや
む
人生
じんせい
も、
如来
にょらい
の
慈悲
じひ
に
出
で
あうとき、 もはや、
苦悩
くのう
のままではない。
阿弥陀如来
あみだにょらい
に
抱
いだ
かれて
人生
じんせい
を
歩
あゆ
み、 さとりの
世界
せかい
に
導
みちび
かれて いくことになる。 まさに
今
いま
、 ここに
至
いた
り とどいている
救
すく
い、 これが
浄土真宗
じょうどしんしゅう
の
救
すく
いである。
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