朝事・住職の法話
平成23年11月 「悲しみの日は」
おはようござます。ようこそ早朝よりお参り下さいました。本年は三月に東北で災害がございました。
現地まで、わざわざ出向いて、被災者を励まされた僧もおられ、被災者も勇気づけられ、尊いことと思います。
しかし、急に家族を失くされたり、家が崩壊した人の苦しみ、悲しみは、すぐに癒えるということは中々難しいのではないかと思います。
私が葬儀に行きました、地元の息子を若くして失くされた母親が、「この息子を亡くした悲しみをなんとかして解決したい、
心の整理をつけたい。私にとって、この悲しみ・苦しみの解決は差し迫った問題なのです。」と言われて、色々な所に行き、悲しみを癒そうとされていたのを思い出します。
人間の胸の奥にある深い悲しみを、法華経では「悲感」
という。これは法華経の
「寿量品」に
「常懐悲感心遂醒悟」
と書いてある。胸の中にいつも、悲感というものがあるから、心が目を醒ます。という意味です。
「かなしい日はかなしみのみちをゆきくらし よろこびの日はよろこびのみちをゆきくらし
たんねんにいちねんにあゆんできたゆえ かすかなまことがみえてきた」
という詩の言葉を聞いたことがあります。
人間は悲しい時は、どうしても悲しい。急に親しい人間が亡くなったりすると、「もっとよくしてあげていればよかった、
もっとこうしていればよかった、、、、」等と、色々な思いが湧いてきて、
心に痛みを感じ続けていくことになるのではないでしょうか。辛いことで、決して楽な状態ではありませんですが、それが人間らしい心の痛みではないでしょうか。
人生は一瞬先はわからない、あてにならないのなら、出来るだけ後悔のないように日々の生活を心して送りたいものです。
「お世話になったね、有難う。また、お浄土で会いましょうねえ。」とお礼を言って別れたいものですね。
金子みすずさんの詩に「こだまでしょうか」「さびいとき」というのがあります。
『こだまでしょうか』 金子 みすず
「遊ぼう」っていうと 「遊ぼう」っていう。「馬鹿」っていうと 「馬鹿」っていう。「もう遊ばない」っていうと
「遊ばない」っていう。そうして、あとで さみしくなって、「ごめんね」っていうと 「ごめんね」っていう。
こだまでしょうか、いいえ、誰でも。
『さびいとき』 金子 みすず
私がさびしいときに、よその人は知らないの。私がさびしいときに、お友達は笑うの。
私がさびしいときに、お母さんはやさしいの。私がさびしいときに、仏様はさびしいの。
自分の心が原因で他人と仲が悪くなったりすることもありますよね。そんな私に一体になって下さり、「さびしいね」と
呼びかけてくださる仏様がおられます。金子みすずさんの詩に学び後悔のない日々を送らせて頂きたいものです。
介護の仕事をしている方が「病人の気持ちにはなれません。」と言われたことがありました。
たとえ病人に寄り添い、車椅子を押してあげても、車椅子に乗っている病人の、辛さ・苦しさに一体にはなれませんでしょう。
仏教では
諸行無常と
いいます。「あてになるものはない。」という意味です。
我々が幸せだと思い、願っている幸せというものは、本当はあてにならないものなのかも知れません。
老・病・死というものも逃れられませんよね。
そういう中で、何が本当のよりどころとなるのか、
共に、み教えに聞いていきたいと思っています。
最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え」の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。
「今ここでの救い」
念仏の
教えに
あうものは、いのちを
終えて
はじめて
救いに
あずかるのではない。
いま
苦しんでいるこの
私に、
阿弥陀如来の
願いは、
はたらきかけられている。
親鸞聖人は
仰せになる。
信心
定
まるとき
往生また
定まるなり
信心
いただくそのときに、たしかな
救い
にあずかる。
如来は、
悩み
苦しんでいる
私を、
そのまま
抱きとめて、
決して
捨てる
ことがない。
本願の
はたらきに
出あう
そのときに、
煩悩を
かかえた
私が、
必ず
仏になる
身に
定まる。
苦しみ
悩む
人生も、
如来の
慈悲に
出あうとき、
もはや、
苦悩の
ままではない。
阿弥陀如来に
抱かれて
人生を
歩み、
さとりの
世界に
導かれて
いくことになる。
まさに
今、
ここに
至り
とどいている
救い、
これが
浄土真宗の
救いである。
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