《 聖典の講座 》
 
『無常迅速 生死の事大なり』

  
第97回 「歎異抄」後序ごじょ 更新 2019年9月

 これまで述べてきた誤った考えは、どれもみな真実の信心と異なっていることから生じたものかと思われます。
 今は亡き親鸞聖人から このような お話を うかがったことがあります。
 法然上人がおいでになったころ、そのお弟子は大勢おいでになりましたが、法然上人と同じく真実の信心わいただかれている方は 少ししか おられなかったのでしょう。
 あるとき、親鸞聖人と同門の お弟子がたとの間で、信心をめぐって論じあわれたことがありました。
 といいますのは、親鸞聖人が、「この善信【人名】の信心も、法然上人の ご信心も同じである」と仰せになりましたところ、 勢観房、念仏房などの同門の方々が、意外なほどに反対なさって、「どうして法然上人の ご信心と善信房の信心とが同じであるはずがあろうか」といわれたのです。
 そこで、「法然上人は智恵も学識も広く すぐれておられるから、それについて わたしが同じであると申すのなら、たしかに間違いであろう。
 しかし、浄土に往生させていただく信心については、少しも異なることはない。まったく同じである」と お答えになったのですが、 それでも やはり、「どうして そのようなわけがあろうか」と納得せず非難されますので、結局、法然上人に直接お聞きして、 どちらの主張が正しいかを決めようということになりました。
 そこで法然上人に、詳しい事情を お話ししたところ、「この源空の信心も 如来から いただいた信心です。 善信房の信心も如来より いただかれた信心です。だから まったく同じ信心なのです。別の信心をいただいておられる人は、この源空が往生する浄土には、 まさか往生なさることはありますまい」と法然上人が仰せになったということでありました。
 ですから今でも、同じ念仏の道を歩む人々の間で、親鸞聖人の ご信心と異なっておられることもあるのだろうと思われます。
 どれもみな同じことの繰り返しではありますが、ここに書きつけておきました。
 枯れ草のように老い衰えた この身に、露のように はかない命が まだ わずかに残っているうちは、念仏の道を歩まれる人々の疑問も うかがい、 親鸞聖人が仰せになった教えのことも お話しして お聞かせいたしますが、わたしが命を終えた後は、さぞかし多くの誤った考えが入り乱れることになるのではないかと、 今から嘆かわしく思われてなりません。
 ここに述べたような誤った考えを いいあっておられる人々の言葉に惑わされそうになったときには、今は亡き親鸞聖人が その おこころにかなって用いておられた お 聖教しょうぎょうを よくよくご覧になるのがよいでしょう。
 聖教というものには、真実の教えと方便の教えとが まざりあっているのです。
 方便の教えは捨てて用いず、真実の教えをいただくことこそが、親鸞聖人のおこころなのです。
 くれぐれも注意して、決して聖教を読み誤ることがあってはなりません。
 そこで、大切な証拠の文となる親鸞聖人の お言葉を、少しではありますが、抜き出して、箇条書きにして この書に添えさせていただいたのです。
 親鸞聖人が つねづね仰せになっていたことですが、 「阿弥陀仏あみだぶつ五劫ごこうもの長い間 思いをめぐらして たてられた本願を よくよく考えてみると、 それはただ、この親鸞一人を お救いくださるためであった。
 おもえば、このわたしは それほどに重い罪を背負う身であったのに、救おうと 思い立ってくださった阿弥陀仏の本願の、何ともったいないことであろうか」と、 しみじみと お話しになっておられました。
 そのことを 今あらためて考えてみますと、 善導大師ぜんどうだいしの、 「自分じぶんは現に、深く重い罪悪を かかえて迷いの世界に さまよい続けている凡夫であり、 果てしない過去の世から 今にいたるまで、いつも この迷いの世界に沈み、つねに生まれ変わり 死に変わりし続けてきたのであって、 そこから抜け出る縁などない身であると知れ」という尊い お言葉と、少しも違ってはおりません。
 そうしてみると、もったいないことに、親鸞聖人が ご自身のこととして お話しになったのは、私どもが、自分の罪悪が どれほど深く重いものかも知らず、 如来のご恩が どれほど高く尊いものかも知らずに、迷いの世界に沈んでいるのを気づかせるためであったのです。
 本当に わたしどもは、如来のご恩が どれほど尊いかを問うこともなく、いつも お互いに善いとか悪いとか、そればかりを いいあっております。
 親鸞聖人は、「何が善であり何が悪であるのか、そのどちらも わたしは まったく知らない。
 なぜなら、如来が そのおこころで善と お思いになるほどに善を知り尽くしたのであれば、善を知ったといえるであろうし、また如来が悪とお思いになるほどに 悪を知り尽くしたのであれば、悪を知ったといえるからである。
 しかしながら、わたしどもは あらゆる煩悩をそなえた凡夫であり、この世は燃えさかる家のように たちまちに移り変わる世界であって、すべては むなしく いつわりで、真実といえるものは何一つない。
 その中にあって、ただ念仏だけが真実なのである。」と仰せになりました。
 本当に、わたしも他の人も みな むなしいことばかりを いいあっておりますが、とりわけ心の痛むことが一つあります。
 それは、念仏することについて、お互いに信心の あり方を論じあい、また他の人に説き聞かせるとき、相手に ものをいわせず、議論を やめさせるために、 親鸞聖人がまったく仰せになっていないことまで聖人の仰せであるといい張ることです。
 まことに情けなく、やりきれない思いです。
 これまで述べてきたことを十分にわきまえ、心得ていただきたいことと思います。
 これらは決して わたし一人の勝手な言葉ではありませんが、経典や祖師がたの書かれたものに説かれた道理も知らず、 仏の教えの深い意味を十分に心得ているわけではありませんから、きっとおかしなものになっていることでしょう。
 けれども、今は亡き親鸞聖人が仰せになっておられたことの百分の一ほど、ほんの わずかばかりを思い出して、ここに書き記したのです。
 幸いにも念仏する身となりながら、ただちに真実の浄土に往生しないで、方便の浄土にとどまるのは、何と悲しいことでしょう。
 同じ念仏の行者の中で、信心の異なることがないように、涙に くれながら筆をとり、これを書いたのです。
 「歎異抄」と名づけておきます。
 同じ教えを受けた人以外には見せないでください。
 



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