《 聖典の講座 》
 
『無常迅速 生死の事大なり』

  
第93 回 第十五条 煩悩具足ぼんのうぐそくをもって、すでにさとりをひらくといふこと 更新 2019年5月

 あらゆる煩悩ぼんのうをそなえた身でありながら、この世でさとりを開くということについて。
 このことは、もってのほかのことです。
 この身のままこの世で、ほとけになるというのは 真言密教しんごんみっきょうの根本の教えであり、 三密さんみつぎょうを修めて得られるさとりです。
 また心身の全てが清らかになるというのは 法華一乗ほっけいちじょうの教えであり、 四安楽しあんらくの行を修めて得られる 功徳くどくです。
 これらはすべて、能力のすぐれた人が修める 難行なんぎょうの道であり、 観念かんねんを成就して得られるさとりなのです。
 これに対して、次の世でさとりを開くというのが 他力浄土門たりきじょうどもんの教えであり、信心が定まったときに間違いなく与えられる 本願ほんがんのはたらきなのです。
 これは、能力の おとった人に開かれた 易行いぎょうの道であり、善人も悪人もわけへだてなく すくわれていく教えです。
 この世で 煩悩ぼんのう罪悪ざいあくっすることなど、とてもできることではないので、 真言密教しんごんみっきょう法華一乗ほっけいちじょうの行を修める徳の高い僧であっても、やはり次の世でさとりを開くことを祈るのです。
 まして、 戒律かいりつを守って行を修めることもなく、教えを理解する力もないわたしどもが、 この世でさとりを開くことなどできるはずもありません。
 しかし そのような わたしどもであっても、 阿弥陀仏あみだぶつ本願ほんがんの船に乗って、苦しみに満ちた迷いの海を渡り、 浄土じょうどの岸に いたりついたなら、 煩悩ぼんのうの雲が たちまちに晴れ、さとりの月が すみやかに あらわれて、何ものにも さまたげられることなく あらゆる世界を照らす 阿弥陀仏あみだぶつの光明と一つになり、すべての人々を救うことができるのです。
 そのときに はじめて さとりを開いたというのです。
 この世で さとりを開くといっている人は、 釈尊しゃくそんのように、人びとを救うために さまざまな姿となって現われ、 三十二相八十随形好さんじゅうにそうはちじゅうずいぎょうこうをそなえ、教えを説いて人々を救うのでしょうか。
 このようなことができてこそ、この世でさとりを開いたといえるのです。
 『高僧和讃こうそうわさん』【注釈版聖典 五九一頁】に、

  「金剛堅固こんごうけんごの信心の
  さだまるときを まちえてぞ
  弥陀みだ心光摂護しんこうしょうごして
  ながく 生死しょうじを へだてける」

  「決して こわれることのない信心が定まる まさに そのとき、 阿弥陀仏あみだぶつ慈悲じひ光明こうみょうおさられ、つねに まもられて、 もはや迷いの世界に もどることがない。」

 とあるように、信心が定まる そのときに、 阿弥陀仏あみだぶつは わたしどもを おさって決してお てにならないのですから、迷いの世界に生まれ変わり 死に変わりするはずがありません。
 だから、もはや迷いの世界に もどることがないのです。
 しかし このように知らせていただくことを、さとりだ などと ごまかしていってよいものでしょうか。
 大変悲しいことです。
 「往生おうじょう 浄土じょうどの真実の教えでは、この世において 阿弥陀仏あみだぶつ本願ほんがんを信じ、 浄土じょうど往生おうじょうして さとりを開くのであると 法然上人ほうねんしょうにんから教えていただきました。」と、 今は亡き 親鸞聖人しんらんしょうにんのお言葉にはございました。



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