《 聖典の講座 》
 
『無常迅速 生死の事大なり』

第48回 自らをふりかえる(二) 更新 平成27年8月
(偈文) 
弥陀仏みだぶつ本願念仏ほんがんねんぶつは、 邪見じゃけん 憍慢きょうまん悪衆生あくしゅじょう信楽受持しんぎょうじゅじすることは はなはだもって、 かたし。 なんのなかの なんこれに ぎたるはなし。
         (第四十七話~第五十話)
 
阿弥陀如来あみだによらい本願ほんがんは、 一切衆生いっさいしゅじょうを救うと お誓いくださった 広大こうだいな ご本願ほんがんです。
しかし、そんなすばらしい本願の教えを 聴聞ちょうもんしようとしない人がいます。
それはどんな人でしょうか。
正信偈しょうしんげには、 邪見じゃけんの人、 驕慢きょうまんの人といわれました。
仏説無量寿経ぶっせつむりょうじゅきょう』には、 さらに 懈怠けたいの人、すなわちなまける人もこれに加えておられます。
私たちは、自分の力で迷いの世界を出ることができません。
にもかかわらず、驕慢きょうまんの人は、 自分には力があるとうぬぼれ、高上りして、自分の力でさとりを得ることができるように思っています。
ですから、すなおに本願念仏ほんがんねんぶつの教えを 聞こうとしません。
自分の力で迷いの世界を出ることができない罪深い 凡夫ぼんぶをお救いくださるのが 阿弥陀如来あみだにょらい本願ほんがんです。
私たちは、ただ 阿弥陀如来あみだにょらいのお救いにおまかせすればよいのですが、 邪見じゃけんの人は、仏法の真理を否定する考えの人ですから、 阿弥陀如来あみだにょらいにおまかせしようとはしません。
浄土真宗のお救いは 「名号みょうごうのひとりばたらき」であると言いますが、 それは、仏法を求めることも、 聴聞ちょうもんすることも必要ないと言っているのではありません。
私たちは、火の中をくぐりぬけてでも 聴聞ちょうもんの場に参加する心を持つことが大切です。
懈怠けたいの人はそういう、法を求めようという気持ちに欠けています。
ですから、この人びとは、他力の信心をうることは なんなんであるといわれたのです。
正信偈しょうしんげのこのお言葉をとおして、 私たちは、自らの聞法の姿勢をふりかえってみましょう。

(話題) 
懈怠けたいの人について話し合ってください。


※『朗読法話集(第二集)』(本願寺出版社 1.200円 電話 075-371-4171)【『朗読法話集(第二集) 正信偈のこころ』として本願寺より刊行されています。】
この本は 「正信偈念仏偈しょうしんねんぶつげ」の 依経段えきょうだん を50編に分け、一つのテーマでひとつの内容を味わっていただけるようになっています。
※本書を朗読し、自分自身が味わいを深めていきたいものです。



今生最後と思うべし 一このたびのこのご縁は 我一人の為と思うべし 一このたびのこのご縁は 初事と思うべし 一このたびのこのご縁は 聴聞の心得


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