《 聖典の講座 》
 
『無常迅速 生死の事大なり』

     
第134回  蓮如上人御一代記聞書れんにょしょうにんごいちだいきききがき新釋 更新 2022年10月

 (四) 内心と外相げそう
 念声是一といふことしらずとまうしさふらふとき、
 仰せに、おもひうちにあれば、いろほかにあらはるるとあり。
 されば信をえたる体は、すなはち南無阿弥陀仏なりとこころうれば、口も心もひとつなり。
   
 【意訳】 「法然上人は 念声是一ねんしょうぜいちということを示されましたが、もともと、念は心のうちに思うこと、声は口に称えることであって、 別のものでありそうなものを、それが同一【ひとつ】であるということは、どうも理解ができませぬ。」とおたずねした人があったとき、 蓮如上人れんにょしょうにんは仰せられた。
 「 ことわざにも思いうちにあれば色ほかにあらわるということがある。
 いただいた信心の体質【ものがら】は南無阿弥陀仏であることを聞きひらいてみれば、口に称える念仏も南無阿弥陀仏、心に領受【おうけ】する信心も南無阿弥陀仏、 口も心も相【すがた】はふたつであるが体【ものがら】は同一【ひとつ】である」と。
 
 【解説】 
 念声是一ねんしょうぜいちということは法然上人の 『選択集せんじゃくしゅう』に示された解釈である。
 念仏は仏体を観念【かんねん】することでなくて、仏名を称念することであると念仏を称名として開顕された新釈である。
 このときは念も声も同意語と扱うてあるのである。
 ところが親鸞聖人の 『唯信鈔文意ゆいしんしょうもんい』に「念と声とはひとつこころなり、念をはなれたる声なし、声をはなれたる念なし」と 釈されたのは、一歩ふみこんで、念を心念とし、声を称名として、信心と称名の関係を味わい、信行は相において不離であり、体において不二であることをのべられたものである。
 この蓮如上人の解釈は親鸞聖人のそれと同致してある。      



※『蓮如上人御一代記聞書れんにょしょうにんごいちだいきききがき新釋』 
    梅原真隆うめはらしんりゅう
本願寺出版社
電話 075-371-4171
 

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