《 聖典の講座 》
 
『無常迅速 生死の事大なり』

     
第129回 女性のための正信偈しょうしんげ
法然上人ほうねんしょうにんの教え【2】」
更新 2022年5月

 32 法然上人ほうねんしょうにんの教え【2】
 

 「還来生死輪転家げんらいしょうじりんでんげ
【生死輪転の家にかえることは】
 「決以疑情為所止けっちぎじょういしょし
【決するに疑情をもって所止とす】
 「速入寂静無為楽そくにゅうじゃくじょうむいらく
【すみやかに寂静無為の楽(みやこ)に入ることは】
 「必以信心為能入ひっちしんじんいのうにゅう
【かならず信心をもって能入とすといえり】

 
 毎日の日暮らしを「世渡り」といいます。
 「世渡り」とは、文字通り「この世を渡っていく」ということです。
 私たちの毎日が、「この世を渡っていく」日暮らしであるというのです。
 「渡る」とは、どこからどこに渡るのでしょうか。
 釈尊は、
 生まれ難い人間に生まれさせて頂き、沢山の生命を 犠牲ぎせいにし、多くの人のお世話になって生かされているのですから、いつまでも、自らを見失い、 生きていく方向を見失って、ウロウロと迷っていてはいけません。
 頂いた生命のありだけを出しきることのできる真実の世界(浄土)に向かって、毎日の日暮らしをさせてもらいましょう。
 このたび、真実の教えにあって、お浄土への人生を歩まなかったら、永遠に、自らを見失い、 生きる方向を見失って、ウロウロと、あちらこちらをさまようだけの人生をくりかえしますよ。
 生まれたり、死んだりしながら、結局は、車輪の輪の周りわまわるような空しいあり方、同じところをグルグル グルグルまわりつづけるような、悲しい あり方から、永遠に離れることができませんよ。
 と、教えてくださいます。
 一体、私たちの日暮らしはね「世渡り」になっているでしょうか。
 ただ世の中に流されて、自分の人生でありながら、どこをどう流されているのか、東も西もわからなくなってさまよっているだけの、文字通り 「世流れ」の人生になっているのではないでしょうか。
 たとえ一歩でも、半歩でも前を向いて進んでいく、お浄土への人生を歩む日暮らしならいいのですが、一歩どころか、半歩も足が進まずに、右の人の顔色を 見たり、左の人の言葉にまどわされ、右往左往しているだけで日を送っているというようなことになっているのではないでしょうか。
 また、過去の失敗やあやまちに縛られ、未来の不安におののき、足がでるどころか、その場に立っていることもできなくて、しゃがみこんで涙して 日を過しているというようなことになっているのではないでしょうか。
 右を見たり、左を見たり、後ろを見たり、キョロキョロ キョロキョロと周りを見ているだけの空しい人生、それも、この一生だけの問題ではなく、 生まれ変わり、死に変わりしながら、そんな人生を繰り返し続ける、私たちのあり方を「生死輪転の家にかえる」と、法然上人は教えてくださるのです。
 では、どうしてそのような生死輪転の人生を繰り返すのかといいますと、「疑情」の故に、そのような人生を繰り返すのだといわれるのです。
 私たちは弱い人間であります。他人の言葉を気にせずに前進するほど強くはありません。
 他人の目、他人の言葉が気になって、悩み苦しむ弱い人間であります。
 また、私たちは、過去を断ち切り、未来の不安をけとばしていくほど強くはありません。
 いつまでも過去の失敗やあやまちが気になり、未来の不安に身をふるわせる弱い人間です。
 そんな弱い人間が、他人の目や言葉をふり切り、過去をかなぐり捨て、未来に向かって体当たりしていけ、それも、真実の世界(浄土)に むかって渡っていけといわれても、涙とため息しかでません。
 そんな私たちを「仏かねてしろしめして」

 どんなことがあっても、私(阿弥陀如来)はあなたを見捨てません。
 二度とない人生です。
 やり直しのできない人生です。
 考えられるだけのことを考え、やれるだけのことをやりなさい。
 他人がどのようなことを言おうとも、また、過去に何があろうが、未来に何が待っていようが、私がついているのですから、力いっぱい生きなさい。
 何も恐れるものはありません。
 私を信じて、思い切って一歩でも半歩でもいいから踏み出しなさい。

 と、久遠の昔から呼びつづけていてくださるのです。

 この阿弥陀如来の、心底私たちを思ってくださる呼び声にはげまされ、ささえられて立ちあがっていくとき、私たちの日暮らしは、本当の意味で、 「世渡り」となるのです。
 立ちあがることができなくて、同じところをグルグル回るような生死輪転の人生を続けるということは、結局、阿弥陀如来の呼び声が わが身に聞こえないからです。
 阿弥陀如来のお心に信順することができないからです。
 この阿弥陀如来の呼び声が聞こえない、阿弥陀如来のお心に信順できないことが「疑情」であります。
 ですから、法然上人は「疑情の故に生死輪転の家にかえる」と、教えてくださったのです。
 そして、浄土への人生は、ただ阿弥陀如来のお心に、呼び声に信順する、信心において実現することをあかしてくださったのであります。

 「決する」とは、ほかでもない、ただこれ一つが問題であるということです。
 「生死輪転の家にかえる」のは、ほかでもない、ただ阿弥陀如来の本願を疑う一つが、その理由であると、はっきりさせてくださったのが、法然上人であります。
 親鸞聖人は、このように、お浄土への道をあきらかに説いてくださった法然上人を「よき人」と仰ぎ、

 親鸞においては、ただ念仏して弥陀二たすけられまひらすべしと、よきひとのおほせをかぶりて信ずるほかに、別の子細なきなり。
  (『歎異抄』)
 
 とまでいいきられています。

 諸仏方便ときいたり
 源空ひじりとしめしつつ
 無上の信心おしえてぞ
 涅槃のかどをばひらきける

 真の知識にあうことは
 かたきがなかになおかたし
 流転輪廻のきわなきは
 疑情のさわりにしくぞなき

  (『高僧和讃』)


 と、法然上人をたたえ、法然上人に遇ったことをよろこばれています。



※『女性のための正信偈しょうしんげ』 
    藤田徹文ふじたてつぶん
本願寺出版社
電話 075-371-4171
 

お経の本やCDや仏書の販売 西本願寺の本
本願寺出版社




今生最後と思うべし 一このたびのこのご縁は 我一人の為と思うべし 一このたびのこのご縁は 初事と思うべし 一このたびのこのご縁は 聴聞の心得


トップページへ   聖典講座に戻る   書庫をみる