《 聖典の講座 》
 
『無常迅速 生死の事大なり』

     
第112回 女性のための正信偈しょうしんげ
「信心の利益りやく【4】」
更新 2020年12月

 15 信心の利益りやく【4】
 

 「一切善悪凡夫人いっさいぜんまくぼんぶにん
【一切善悪の凡夫人】
 「聞信如来弘誓願もんしんにょらいぐぜいがん
【如来の弘誓願を聞信すれば】
 「仏言広大勝解者ぶつごんこうだいしょうげしゃ
【仏 広大勝解のひととのたまへり】
 「是人名分陀利華ぜにんみょうふんだりけ
【このひとを分陀利華と名づく】

 親を大切に、師を敬い、友と仲良くするというような、世間的にいいことだといわれていることを欠けめなく行っている善人も、 またそのことを心がけてもなかなか行うことができなくて悲しんでいる悪人も、共に凡夫であります。
 凡夫とは、『観無量寿経』のお言葉から頂きますと、意志が弱く、見通しがきかなくて、自分の小さな からの中だけでしかものを見ることのできない私たちのことであります。
 そんな私たちが、阿弥陀如来の「どんなことがあっても必ず救う」という、海のように広い本願を聞きひらき、本願におまかせすれば、 諸々もろもろの仏がたは、真実の法が最もよく 領解りょうげできた人とほめてくださいます。
 そして、信心の人を、泥沼にあって泥に汚れることのない清浄 無垢むくな白い蓮華のような人と名づけてくださるのです。
 この蓮華について、 曇鸞大師どんらんだいしの『往生論註』に、
 
 
 『経』にのたまはく、「高原の陸地は蓮華を生ぜず、 卑湿ひしつ汚泥おでいはすなはち蓮華を生ず」と、此は凡夫煩悩の泥の中に在りて、 菩薩の為に開導せられて、 く仏の 正覚華しょうがくげを生ずるに たとふ。
 
 
 と、説かれています。
 
 私たちが生きる場は、決して美しく、澄みきった高原のような世界ではありません。
 じめじめとしめった、顔をそむけたくなるような、ドロドロした世界です。
 まさしく、煩悩の渦巻く泥田の中で足をとられ、前にこけたり、 しりもちをついたりしながら泥だらけになって、私たちは生きています。
 その、泥にまみれた私が、阿弥陀如来の光明に照らされ、導びかれ、清浄無垢の信心の華を咲かせるのです。
 それで、分陀利華(ふんだりけ)(白蓮華)と名づけてくださるのです。
 親鸞聖人は、お手紙(『末灯鈔』)の中で、
 
 
 しかればこの信心の人を釈迦如来は「わが親しき友なり」とよろこびまします。この信心の人を「真の仏弟子」といへり、この人を 「正念に住する人」とす、この人は 摂取せっしゅして捨てたまはざれば「金剛心を たる人」と申すなり。この人を「上上人」とも 「好人」とも「妙好人」とも「最勝人」とも「希有人」とも申すなり。
 この人は 正定聚しょうじょうじゅの位に さだまれるなりと知るべし。
 しかれば 「弥勒みろくと等しき人」とのたまへり、これは真実信心を たるゆえに必ず真実の報土に往生するなりと知るべし。
 
 
 と、信心の人をたたえられています。阿弥陀如来のおはたらきにより、泥だらけの私が、このように最高の身にしあげられるのであります。




※『女性のための正信偈しょうしんげ』 
    藤田徹文ふじたてつぶん
本願寺出版社
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