《 聖典の講座 》
 
『無常迅速 生死の事大なり』

     
第110回 女性のための正信偈しょうしんげ
「信心の利益りやく【2】」
更新 2020年10月

 13 信心の利益りやく【2】
 

 「摂取心光常照護せっしゅしんこうじょうしょうご
【摂取の心光つねに照護したもう】
 「已能雖破無明闇いのうすいはむみょうあん
【すでによく無明の闇を破すといえども】
 「貪愛瞋憎之雲霧とんあいしんぞうしうんむ
【貪愛瞋憎の雲霧】
 「常覆真実信心天じょうふしんじんんじんてん
【つねに真実信心の天におおえり】
 「譬如日光覆雲霧ひにょにっこうふうんむ
【たとえば日光の雲霧におおわるれども】
 「雲霧之下明無闇うんむしげみょうむあん
【雲霧の下あきらかにして闇なきがごとし】

 私たちのあり方
 学問すれば学問にこだわり、経験を積めば経験を鼻にかけ、地位につけば地位を かさに、財を持てば財を振り回さずにはおれない私たち。
 幼い子供が握ったものを振り回して夢中になって遊ぶように、私たちも握った学問・経験・地位・財産を振り回すことに夢中になります。
 そして、それらを振り回している間に、逆に それらに振り回されて、
一生を棒にふってしまう私たち・・・・。
 また、自分にとって都合の悪いことがあれば、学問・経験・地位・財産等を掘として、自分の城にこもってしまう私たち。
 白日のもとで、生きるのではなくて、いつも何かを盾にして自分の小さな殻の中に閉じこもってしまう私たち。
 小さな殻に閉じこもり、光のささないところで、自らの進んで行かなければならない方向を見失い、自分自身すらも  はっきり見えないような状態で生きている私たち。
 そんな私たちのことを案じて、照らしつづけておってくださる 阿弥陀如来あみだにょらいの「おさめとって捨てることのない」光に  い、 暗闇くらやみの私の小さな からの中に光がさしてきました。
 私の正体が おぼろげながらも明らかとなり、私の進んで行かねばならない方向も知らされました。
  暗闇くらやみの私の小さな からの中に、 信心しんじんの朝が来たのです。
 もう私の小さな からの中は 暗闇くらやみではありません。
 光は常に私のところまで届いています。
 しかし、私の胸のうちは雲一つないような快晴かといいますと、決してそうではありません。
 日暮しが順調に いけばいくほど、むさぼり(貪愛)の雲が私の胸をおおいます。
 私の むさぼりの心には限度がありません。
一つが満たされれば また一つ、また一つと、むさぼりの心は限りなく広がり、私をすっぽり おおってしまいます。
 反対に毎日の生活が思うようにいかなくなると、私の胸は いかり(瞋憎)の雲に おおわれてしまいます。
 このように、私の胸は常にむさぼり、いかりの雲霧によって おおわれてしまいます。
 このように、私たちの胸は常にむさぼり、いかりの雲霧によって おおわれてしまいます。
 このように、私の胸は常に むさぼり、いかりの雲霧によって おおわれ、目の覚めるような快晴の空を見ることができません。
 常に信心の天は、私の むさぼりの雲、いかりの霧によって へだてられています。
 しかし、だからといって、私は また 暗闇くらやみの世界に逆もどりかと いいますと、決して そういうことではありません。
 それは、ちょうど 太陽の光が雲や霧に おおわれても、雲や霧の下が 暗闇くらやみでないのと同じであります。
 私たちの毎日は、いろいろなものとの出会いの 連続れんぞくであります。
 見るもの 聞くものが すべて私たちに いろいろの感情を起こさせます。
 それらの ほとんどは、むさぼり と いかり、かわいい と 憎い という感情であります。
 しかし、私が どのような感情に 翻弄ほんろうされようとも、 阿弥陀如来あみだにょらいの光明は 何ものにも 翻弄ほんろうされることなく、私を常に照らし まもってくださるのです。
 私は この 阿弥陀如来あみだにょらいの光明の輝く世界を ただ一すじに力一ぱい生き抜かせて頂くのです。




※『女性のための正信偈しょうしんげ』 
    藤田徹文ふじたてつぶん
本願寺出版社
電話 075-371-4171
 

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今生最後と思うべし 一このたびのこのご縁は 我一人の為と思うべし 一このたびのこのご縁は 初事と思うべし 一このたびのこのご縁は 聴聞の心得


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