《 聖典の講座 》
 
『無常迅速 生死の事大なり』

     
第109回 女性のための正信偈しょうしんげ
「信心の利益りやく【1】」
更新 2020年9月

 12 信心の利益りやく【1】
 

 「能発一念喜愛心のうほついちねんきあいしん
【よく一念喜愛の心を発すれば】
 「不断煩悩得涅槃ふだんぼんのうとくねはん
【煩悩を断ぜずして涅槃をうるなり】
 「凡聖逆謗斉回入ぼんじょうぎゃくほうさいえにゅう
【凡聖ひとしく回入すれば】
 「如衆水入海一味にょしゅしいにゅかいいちみ
【衆水海にいりて一味なるがごとし】

 信心とは
 釈尊のみ教えにしたがい、 阿弥陀如来あみだにょらいに おまかせすることを信心といいます。
 すなわち、釈迦・弥陀二尊のおはたらきによって、私たちは信心を ることができるのです。
 親鸞聖人しんらんしょうにんは、

 釈迦・弥陀は慈悲の父母ぶも
 種々に 善巧方便ぜんぎょうほうべん
 われらが無上の信心を
 発起せしめたまひけり
         (『高僧和讃』)
 と、たたえられています。

 一念喜愛の心
 一念喜愛の心とは、信心のことです。なぜ信心を、一念喜愛の心というかといいますと、親鸞聖人は、一念について、

 「一念」というは、信心に二心無きが故に「一念」という。
  これを「一心」と なづく、一心は すなわち清浄報土の真因なり。
     (『教行信証』信巻) 
 
 と、おっしゃって、喜愛については、 信楽しんぎょう【信心】を 「歓喜賀慶かんぎがけい【よろこび】の しん」・
欲願愛悦よくがんあいえつ【如来の私たちを救おうという本願力に遇ったよろこび】の心」
 というお言葉によっているのです。
 この阿弥陀如来に二心なく おまかせする という よろこびの心【信心】によって、 煩悩具足ぼんのうぐそくの私たちが、この人生を強く明るく生きぬくことができるのです。
 それは、この世のことのみにとどまるのではありません。
 生命終わったならば、ただちに お浄土に生まれ、
 真実の平安である涅槃(ねはん)をうることができるのです。
 煩悩を断ぜずして どうして涅槃をうることができるのかといいますと、私たちは、煩悩(ぼんのう)を力にし、煩悩を相手に生きているから、 煩悩にひきずり回されて迷いを深めているのですが、阿弥陀如来におまかせする信心の生活は、阿弥陀如来を力として、自身を本当に生きるのですから、 煩悩があっても、煩悩にひきずり回されることがないのです。
 ですから、煩悩があっても邪魔にはならず、阿弥陀如来の お力によって涅槃(ねはん)をうることができるのです。
 それは、いかなる人であっても、わけへだてはありません。
 親鸞聖人しんらんしょうにんは、あとの二句について、

 「凡聖逆謗斉回入ぼんじょうぎゃくほうさいえにゅう」といふは、 小聖しょうしょう凡夫ぼんぶ五逆ごぎゃく謗法ほうぼう無戒むかい闡提せんだい 廻心えしんして 真実信心海しんじつしんじんかい帰入きにゅうしぬれば 衆水海しゅうすいうみりて ひとつあじわいなるがごとしとなり、これを 「如衆水入海一味にょしゅしいにゅかいいちみ」といふなり。
    (『尊号真像銘文そんごうしんぞうめいもん』)

 と おっしゃっています。
 小聖とは、釈尊を 大聖だいしょうというのに対して いわれるので、いわゆる聖者のことです。
 凡夫とは、 親鸞聖人しんらんしょうにんが、

 凡夫というは 無明煩悩むみょうぼんのうわれらが身にみちみちて 
 欲もおおく いかり腹だち そねみ ねたむ心多くひまなくして臨終の一念に いたるまで とどまらず きえず たえず。
    (『一念多念証文』)

 と おっしゃっています。
 五逆とは、自分を この世に出してくださった父を殺し、母を殺し、また人間としての真の生き方、すなわち、仏になる道を教えてくださった先輩 【阿羅漢あらかん】を殺し、み教えを よろこぶ集団 【僧伽さんが】の和合を破り、
 さらに仏身を傷つけるような五逆罪を犯した人間のことです。
 身近なことでいえば、気にくわなければ父・母さえも邪魔にし、自分の都合が悪ければ平気で先輩の悪口をいい、集団の秩序を乱し、 あまつさえ、如来さまを傷つけるような私たちのことです。
 謗法(ほうぼう)とは、正法を そしるもののことです。
 すなわち、平素は阿弥陀如来の み法(みのり)を聞いているような顔をしているが、一たん事が起これば、 暦(こよみ)にたより、占いに走り、祈祷によって事を解決しようとするような人間のことです。
 また、宗教的に無関心の人も この中に入ります。
 無戒(むかい)とは、釈尊の定めてくださった戒律(かいりつ)を守ることのできない人間のことであります。
 闡提(せんだい)とは、仏になる因(たね)を まったく もたないもののことです。

 一味の救い
 これらの、私たちを はじめとして すべてのものが阿弥陀如来に おまかせするという信心によって、何の わけへだてもなく、ひとしく救われるのです。
 それは、ちょうど大河をゆっくりと流れてきた水も、小川を せかせかと流れてきた水も、また、清らかな水も、汚れた水も、どのような水であっても 大河に流れ込めば、何の わけへだてもなく、一つの味になるのと同じです。
 それで 親鸞聖人しんらんしょうにんは、本願の世界を本願海とか、たんに願海と いわれ、海に たとえられるのです。
 そして、このことを、

 「海」というは、 久遠くおんよりこのかた、 凡聖所修ぼんしゅうしょしゅう雑修ざっしゅ雑善ぞうぜんの川水(せんすい)を転じ、 逆謗闡提ぎゃくほうせんだい恒沙無明ごうじゃむみょう海水かいすいを転じて、 本願大悲智慧真実ほんがんだいひちえしんじつ恒沙万徳ごうじゃまんどく大宝海水だいほうかいすいす。これを 「海のごとし」と たとうるなり。
    (『教行信証』信巻)
 
 と おっしゃっています。   




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本願寺出版社
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