☆☆ 法 話 ☆☆
 
【 私の如是我聞 】

                   
第98回 ただ一人歩め更新 2019年10月
          
 『音声おんせいおどろかない 獅子ししのように、  あみにとらえられない風のように、 水に汚されない蓮のように、 さいの角のように ただひとり歩め。』
             【「経集」】
 「ただひとり歩め」-なんという厳しい言葉であり、私の眠気を覚ましてくれる言葉でしょうか。
 世の中には、いろいろなタイプの人があります。自主性がなく、消極的で依存的な人、 そんなタイプの人は なにごとも自分では決断できず、いつも人に頼っています。
 そのような人にかぎって、表面的は おとなしく温順で、いかにも よいようですが、内心は いつもクヨクヨしている人が多いようです。
 このような人は、自分で生きることを本当に知らない人だと思います。
 そうかと思うと、たいへん理性的で自主性があり、積極的なタイプの人があります。
 いつでも自分から進んでテキパキと判断して行動します。そのような人は、表面は本当にたのもしく健康的で、快活でよいようですが、 案外に利己的で わがままで、人から悪口でもいわれようものなら、すぐ腹を立て、他の意見を聞き入れる ゆとりのない人が多いようです。
 このような人には、人間としての たのしみがありません。
 このように、いずれも一長一短いっちょういったんです。
 今、ここで「ひとり歩め」と いわれるのは、たんに、一人で自主的に歩め と いわれるのではなく、自己を ごまかすことのできない姿に目覚めよ、 ということだと思います。
 このような 姿すがたに目覚めてこそ、人は はじめて たしかな さわりのない歩みを つづけることができます。
 その第一歩こそ、 ほうを見る始めであります。
 そういう人は、この世の どんな できごとにも、驚かず、悲しまず、なにものにも さまたげられず 歩むことができるのです。
 だれに気がねすることもなく、「上をむいて」「わが道を行く」のは結構なことでしょう。
 だれでも その 権利けんりをもっています。
 しかし、ただ それだけでは、ともすれば「ひとりよがり」になり やすいものです。
 それでは かえって「あみに とらえられる」でしょう。
  かたを いからさずに、「わが道をゆく」という 姿勢しせいであってこそ、ほんとうに「ひとり歩む」といえるのです。
                     


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