☆☆ 法 話 ☆☆
 
【 私の如是我聞 】

                   
第94回 与えることについて更新 2019年6月
          
 『ざいすに おごるいたらざれ。前にいる人を 選択せんたくすべし。 欺誑觝突ごおうたいとつなるものには、むしろ うとも、ことごとくは あたえざれ。』
             【「善生経」】
 与えることは美徳であるといいますが、じつは与え方をよく考えないと、何にもならないことがあるものです。
必要以上に、そしてこれ見よがしに財を出しても、決して喜ばれるものではありません。
札束さつたばで人のほっぺたをなぐるようなやり方は、与えることにはならないのです。
かえってその人の 憍慢きょうまんを表現しています。
相手をみて、その人にいちばんふさわしい方法で与えなくてはなりません。 
そのためにかえって相手に依頼心を起こさせたり、反発を感じさせるのだったら、与えた意味はなくなります。 
それというのが、与えるということは、相手のためによかれという立場からなさるべきであって、自分の気前のよさや見栄のためであってはならないからです。 
 そういう人は、与えることにとらわれているというべきでしょう。
 そして横着な者には、むしろ乞うても全部はやらない方がよいと教えられています。
 まことに与えるということについて、心すべき教訓だと思います。
 物一つ与えるにしても、完全に与えることのできるためには、どれほどの智恵を必要とすることでしょう。
 ギリシャの哲人、ソクラテスの言として、
 「私に多少とも ひとに すぐれているところがあるとすれば、それは隣人とうまく折れ合ってゆけるということぐらいである」
という意味のことばが伝えられています。
 「人とうまく折れ合ってゆく」ということは、たいていの人がやっていることです。
 しかし、それをほんとうに完全にやるには、ソクラテスほどの智恵が必要であったのです。
  白楽天はくらくてん道林禅師どうりんぜんじさんじたとき、 仏法ぶっぽう大意たいいうたところが、 「諸悪莫作しょあくまくさ衆善奉行しゅぜんぶぎょう」という こたえでした。
そこで 白楽天はくらくてんは 「そんなことは 三歳さんさい子供こどもでもいえる」といいますと、 は 「三歳さんさい子供こどもがいえても、 八十歳はちじゅうさい老翁ろうおうでも おこなうことはできぬ」と こたえたということです。
 修行はいたるところにあるものです。

 *[註] 欺誑觝突ごおうたいとつ 欺誑ごおうというのは あざむくことであり、 觝突たいとつはう詩が つので突きあうように 衝突しょうとつすることを意味します。
 つまり、人をだましたり、道理にあわないことを言ったりすることです。
 
                      


※『ひかりの言葉』
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