☆☆ 法 話 ☆☆
 
【 私の如是我聞 】

               
第88回 樹根そこなれずして固ければ 更新 平成30年12月
          
樹根じゅこんそこなわれずして固ければ、 伐らるるとも再び生ずるが如く、 愛欲あいよくの執着断たざれば、この苦は再び生起す。』 

         【「法句経」】

 あいということを考えてみますと、近ごろこれほどよく人びとに語られる言葉はないでしょう。
わかい時、盛んな時、老いたる時、いつも私たちは愛を求めています。
 しかし、これほどまた 悲劇ひげきをもたらすものも他にないでしょう。
 昔から、愛することは苦しみの始めであるといわれますが、その通りだと思います。
 人間の愛というものは、それがどんなに美しい愛でも、心のどこかに 条件じょうけんをともなっているものです。
 私はそんなことはない、ほんとうに、条件なしに愛している、といわれる人があるかも知れません。 
 しかし、そんな人でも、しばしば口ではそういいながら、 こころの中では、「あれだけ愛してやったのに」と思うことがあるのではないでしょうか。
 もともと、人間の欲望には限りがないといわれますが、 愛欲あいよくにも限りがありません。
 ですから、その表れ方は種々さまざまです。
いとき、悪いとき、 幸福こうふくなとき、不幸なとき、喜びのとき、悲しみのとき、いろいろ縁にふれて種々の姿となって 表れるものです。
 そればかりか、考えてみますと、世の 愛欲あいよくの中にあって、 ひとり生れ ひとんでいく 姿すがたが、 自分じぶんのごまかしのない 姿すがただったのです。
 私たちは 愛欲あいよくからのがれようとしても、のがれることができない 存在そんざいでした。
 そうした 人間にんげん限界げんかいに気づくとき、はじめて、 愛欲あいよくの中にあって、 愛欲あいよくにしばられない 人生じんせいひらかれるのではないでしょうか。
 それを、身をもって身近に知らして下さった人こそ、 親鸞聖人しんらんしょうにんです。
 もし、 愛欲あいよく愛欲あいよくとしてめざめることがなかったら、いつも、他をしばり、自己をもしばり、 その 愛欲あいよくのとらわれから、 苦しみは断えないでしょう。
 考えてみますと、私たちは自動車の部品のことは細かに知っていても、いろいろの愛の区別はほとんど知らないのです。
 何でもかでもいっしょくたに「愛」と名づけて、何か上等のもののように思っています。
 とんでもないことです。
 「愛」のなかにある「愛欲」のあやうさを知らずして、人を愛することはできません。
                       


※『ひかりの言葉』
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