☆☆ 法 話 ☆☆
 
【 私の如是我聞 】

第58回 限りないとは?*阿弥陀仏あみだぶつ  更新 平成28年6月

私は、子供のころ、空を見るのが好きでした。
最近では天気を確認するために見ることはあっても、ただ意味もなく空を見るということがありません。
ぼんやりと空を見る。時を忘れて空を見る。
あれはいったい何を見ていたのでしょうか?
「今、雲の向うに見えている青空のずっと先に空がある。限りない宇宙の向うにも、ずっと先があるそうだ。 どれだけ先があるのだろうか?」
何かしら不思議な思いで、 かれたように空の一点を見続けていたことを思い出します。
けれども、どれだけ青空の向うを見通そうと見続けても、自分の見えている範囲の空しか見えません。
宇宙を想像しようにも、私などには、せいぜい理科の教科書に出てくる太陽系ぐらいのもので、それを越えることなんてできません。
ましてや「宇宙が今も膨張している」という話を聞いたときには、頭が混乱してしまいました。
また、二枚の鏡を向かい合わせに立て、その間にボールを置いて、のぞき込んだこともあります。
ボールとそれをのぞく自分の顔が限りなく見えています。
しかし、鏡の奥の方になるとよくわかりません。
限りないものやはかり知れないものというのは、確かにあるのでしょうが、私のにはよく見えず、正しく理解できていません。
ただ、なんとなく「無限」とか「無量」だとイメージしているだけにすぎず、本当に理解できている訳ではないのです。
阿弥陀あみださまの「阿弥陀」とは、「限りがない、はかることがではない」という 意味で、すなわち「無限」「無量」であります。
釈迦しゃかさまのことは理解できるけれど、阿弥陀さまのことはわからない という声をよく聞きます。
人間の知識や判断ではわからないという意味では、
「阿弥陀」【無限】はよくわからなくて当たり前であります。
しかし、よくわからないという問いの中には、自分の知識や判断でうまく受けとめられないという意味合いが含まれています。
お釈迦さまは歴史上の人物として理解できるが、阿弥陀さまはこの世に現われた存在ではないから理解できないというのでしょう。
そこには、自分の知識や判断にうまく おさまるものだけが本当で、それ以外は本当ではないというものの見方があります。
けれども、宇宙や鏡の中のボールのように、人間が 把握はあくできなくても無限はあるのです。
また、人間の尺度がどうであろうとも無限は人間にかかわっているのです。
現代の人間は、自分の尺度だけを頼りにして、無限というものの「すごさ」に 鈍感どんかんになってきているように思えてなりません。
本来人間は、無限というものの「すごさ」にうたれて、無限に出会うのであります。
限りない大河の流れや夜空の限りない 星雲せいうんに感動するように。
阿弥陀さまの無限は、単なる自然の無限とは異なり、人間という迷いの存在に「限りない願い」をかけ、救いを与えようとするものです。
その「すごさ」に出会った時、それは「尊さ」となり、自分の尺度の至らなさが知らされるのです。
どうも私たちは、目に見えない世界はすべて嘘だという考えに毒されているのではないでしょうか?



※『ひらがな真宗』本願寺出版社 定価:\756(本体\700+税) 電話 075-371-4171

最近、「仏教の言葉がむずかしい」「漢字が多くてどうも」という若い方の声や、「高校生や中学生にもわかりやすく真宗のご法話をしたいが」 という年輩方の声をよく耳にします。
※本書は、『ひらがな真宗』の題が示すとおり、まさにその声にこたえるべき待ち望まれていた書です。
名号みょうごう」 「本願ほんがん」 「浄土じょうど」 「他力たりき」といった真宗の用語を、その用語のしめす雰囲気でわかったつもりで使うのでなく、 専門的な言葉を使わずに説明したり、ご法話するすることは簡単なことではありません。
また、せっかくわかりやすくと思っても、やさしい言い回しにとらわれすぎて、真宗の教えの真意がうすれてしまっては意味がありません。
その点でも本書は、実にすぐれた書であるといえます。
若い方にもわかりやすく、日常生活の中の身近な話題をピックアップしていて、肩の力を抜いて読むことができます。
それでいて温もりのある、心にひびく文章には、こども会を続けてこられた森田氏【森田 真円氏】のお人柄があふれているような気がします。
 一九九九年十二月   
  東光 爾英 【『ひらがな真宗』「はじめに」より抜粋】

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