☆☆ 法 話 ☆☆
 
【 私の如是我聞 】

                   
第145回 しづみゆくものをすくう更新 2023年9月
          
 『 「じょう」はすくふといふ。 「群萌ぐんもうはよろづの」 衆生しゅじょうといふ』
 
 【一念多念証文いちねんたねんしょうもん】      
 「名もなき草に光こぼるる」
 いつかの本願寺ポスターの言葉です。
 はなやかさに あこがれ、目立つことに心奪われるのが、時代の流れなのでしょうか。
 そして、教育の場でも「落ちこぼれ」という造語さえ生まれる昨今であります。
 冒頭の言葉に会った時、私は、はたと立ちどまりました。
 一見、見忘れられるような一隅に、目立たない、いや、踏みにじられて捨てられそうな草花。
 しかし、それをよく見れば、その名もなき小さな花が、光の中で、精いっぱい生きているではないか。
 言いかえれば、光は、名もなき花のいのちに、まぎれもなくふり注いでいるではないか。
 その花のいのちを、本当に見かす時、生きとし生けるもののあり方が、言いあてられているようにおもうのであります。
 今回の法語は『大無量寿経』の 出世本懐しゅっせほんがい(如来がこの世に生まれたもう本音、目的)を告げられた文を、懇切に説き明かされた親鸞聖人のお言葉であります。
 「群萌」という響きに、群がる えいずる草のような、あるいは大地をはいまわる生きものを感じますが、教えの上からいえば、「群萌」とは、「よろづの衆生」ということであります。
 「よろづの衆生」ですから、老少善悪を選ばないということであります。
 「弥陀の本願には、老少・善悪のひとをえらばれず、(歎異抄)」と言われる通りであります。
 さらにいえば、悪なるものを切ってしまうとか、落ちこぼすという発想とはうらはらであって、まさに如来の大悲に落ちこぼれる人はないということであります。
 してみれば、「慈悲平等なるが故に病重きものにまずゆく」でありまして、悪なるもの、煩い悩みから離れることのないものをこそ救わねばならないという大悲の深さとひろさに、めざめさせられるのであります。
  「すく」うという一字を見て、涙ながらに喜ばれたという学者のおもかげを、思い出さずにおれません。
 「拯」は、沈みゆくもの、落ちゆくものを、必ずすくうという意味で、聖人は「されば、それほどの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ(歎異抄)との趣であると、喜ばれたのでありました。
 「よろづの衆生」にかけられた如来の大悲であればこそ、「この私」がめざめさせられるのであり、この私がすくわれてゆく本願であればこそ、「よろづの衆生」がすくわれてゆくのでありました。
 よくよく、この法語のこころを、身に引き当てていくべきであります。
   



※『真宗法語のこころ』  中西智海師
本願寺出版社 
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