☆☆ 法 話 ☆☆
 
【 私の如是我聞 】

                   
第140回 説法と聞き手の姿勢と根機こんき 更新 2023年4月
          
 『一地の生ずる所、
 一雨の潤す所なりといえども、
 しかも もろもろくの  草木に、
 おのおの差別有るが如し』

 【法華経ほけきょう】      
 
 教室の中は、子供たち特有の匂いで満ちみちていました。教壇の上の先生は、波にのったように、大きな声で説明していました。
 ここは大切なところだと思うと、先生は何回もくり返してしゃべりつづけていました。
 子供たちの中には、隣の女の子と何かごそごそ話をしている男の子がいました。
 先生の 視線しせんがその方に向けられると、その時だけは二人ともすまして、熱弁に聞きいりました。
 机にひじをついて、輝くようなまなこを先生の顔になげかけている子供もいました。
 弁当をそっと出して「今日のおかずは何たろう」とみている女の子もいました。
 机の上にナイフで彫刻している豆芸術家もいました。
 同じ場所で、同じ先生が、何かについてしゃべっています。
 しゃべっているその声は、一人ひとりの耳に同じように聞こえているはずです。
 しかしながら、おなじように理解されているとは限りません。
 一人ひとりの子供の顔、頭、そして聞いている態度がすべて違うように、その理解している事も違っています。
 もちろん、ことばは一つですが、それぞれの受けとり方で、一人ひとりの子供の力相応に聞きとっているのです。
 今のお経の文は、説き手と、さまざまな聞き手との関係について、たとえ話を出して説明しています。
 全世界をおおう雲から降った雨は、あらゆる草木をうるおします。
 大樹は大きな根、大きな茎、大きな枝、大きな葉と順々にその水を吸収します。
 大きな樹木も小さな木も、雑草も毒草も、それぞれの力に応じて、うるおされて成長します。
 同じ雨、同じ味の水は、こうして、それぞれに異なった種類の草木を同じ土地に育てるのです。
 お釈迦さまも同じなのです。
 同じように説法なさいますが、聞き手の姿勢、根機によって、受け取り方が変わってくるわけです。
 人の話を聞くときも、かんたんに「面白い」とか、「くたらん」とか批評することは考えものです。
 面白いというのは、たまたま自分の思っていることに合ったということでしょうし、くだらないというのも、その話そのものがくだらないのではなくて、自分の関心がそちらに向いていなくて、受け取る態勢ができていない場合もあるのです。  



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今生最後と思うべし 一このたびのこのご縁は 我一人の為と思うべし 一このたびのこのご縁は 初事と思うべし 一このたびのこのご縁は 聴聞の心得


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