☆☆ 法 話 ☆☆
 
【 私の如是我聞 】

                   
第139回 さわりなき一道いちどう 更新 2023年3月
          
 『ときをきらはず、ところをへだてず、ひまなく 真実信心しんじつしんじんく
 ひとをばつねにてらしまもりたまふなり』

一念多念証文いちねんたねんしょうもん】      
 
 「すくわれるとはどういうことか、すくいの実感とはどういうものか」という問いは、道を求める者の率直なこころでありましょう。
 このことについて、真宗では「すくい」は、「現生のすくい」と「当来のすくい」として説かれています。
 すなわち、すくいは現在、ただいまのすくいと そして未来のすくいの両方が説かれるのであります。
 これを「現当二世の利益りやく」とも言われてきたのです。
 さて、現在ただ今のすくいとは どうなることであり、どういう実感なのでしょうか。
 それは端的にいって「無碍光仏のこころ」に疑いのない事実であり、われ如来とともにあり、われみ仏に まもられてあり、ということでありましょう。
 それはまた「摂(おさ)めとって捨てない」という阿弥陀如来の本願へのうなずきであるというべきであります。
 この法語は、善導大師の「彼の仏の心光、常に是人を照らし摂護して捨てず」というお言葉についての親鸞聖人のおこころを述べられたものであります。
 そして、「彼の仏の心光」というのは「無碍光の御こころとまふすなり」と示され、「常に是の人を照らす」という「常」は「つねなることひまなくたえず」ということであると 説き明かしてくだされています。
 まことに、信心の行者、念仏申す者は「ときをきらはず、ところをへだてずひまなく、、、、つねにてらしまもりたまふ」無碍光如来の御こころをしかと身にうけとるのであります。
 思えば、私のこころは、その時、その場で変わりはてがちであることを知らされる時、「ときをきらはず、ところをへだてずひまなく」 「てらしまもりたまふ」はたらきが私の身についてくだされるとは何と大きな喜びでありましょう。
 「われまもられてあり」「われ照らされてあり」「み仏だけは真実を知りぬいておってくださいます」と を合わさせていただく時、そこに さわりなき一道が開けてくるのであります。
 私はかつて次のような質問を受けたことがあります。
 「毎日、毎晩、不安で不安でたまりません。何かにとりつかれたのでしょうか。夜も寝られません。信心が足らないのでしょうか」と。
 私は「そのような われらこそ、ときをきらはず ところをへだてず ひまなく まもりどおしの み仏があるのです。 夜、目がさめたら合掌しましょう。本願を信じ念仏申す人生は、わすでにれまもられてあり、照らされているのです。 南無阿弥陀仏をとなふれば、十方無量の諸仏は、百重千重囲繞して、よろこびまもりたまふなり」と答えました。
   



※『真宗法語のこころ』 中西 智海師
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