☆☆ 法 話 ☆☆
 
【 私の如是我聞 】

                   
第135回 んだらどうなるか 更新 2022年11月
          
 『 「とく」はうべきことをえたりといふ。
 真実信心しんじつしんじんをうれば、すなはち 無碍光仏むげこうぶつ
 おんこころのうちに  摂取せっしゅして、 てたまはざるなり』

一念多念証文いちねんたねんしょうもん】      
 
 「死んだらどうなるのだろうか。」この言葉は、病の床に臥した者だけが起こす問いではありません。
 また、老人だけが発するそれでもありません。
 その問いに対して、科学や芸術や倫理は答えてくれるでしょうか。
 科学は二千年後の天体の未来を予言しても、明日の私のいのちの解決は教えてくれません。
 芸術や倫理も、美や善は語りえても、「死」を根本的に解決できるものではありません。
 そこに、死にまつわる迷信がはびこってくる要因があるようです。
 自分の知性や感情や意思でどうにもならないので、やれ霊感だ、たたりだ、 祈祷きとうだということらなるのでしょう。
 それにしても古代や中世の文学に描かれているように、この世のことならほしいままにして、天下をわがものにした武将が死の恐怖におそわれて、死にぎわに迎えに来てくれる 「来迎仏」の絵を 屏風びょうぶに描かせ、そのうえ仏の口から糸を垂らして、その糸を自分の口にくわえたというではありませんか。
 このようなことを思うにつけて、親鸞聖人の真宗の教えの確かさにうなずかずにはおられません。
 死にぎわになって恐れやおののきをとり去るのではありません。
 臨終のさまや かたちで救われるのでもありません。
  平生へいぜいの時にすくいの業事(因)が成就る、いわゆる 平生業成へいぜいごうじょうなのであります。
 すなわち「阿弥陀如来の誓願のはたらき一つによって、必ず凡夫が仏に成ることができると信じて念仏もうさんとおもいたつこころがきざした時、もはや おさめ取って捨てないという如来の慈悲の中のいのちとなるのである」(『歎異抄』第一章取意)というのであります。
 この法語は、まことの信心をうれば、ただちにどのような煩悩にもさまたげられない光である、阿弥陀如来のみこころに おさめとられて捨てたまわないという喜びとなることを語り説かれているのであります。
 確かな明日がなければ生きられない私のいのちに、それならば、たしかな「いま」に出会いなさいというのが真宗であります。
 「本願力にあひぬれば むなしくすぐるひとぞなき 功徳の宝海みちみちて 煩悩の 濁水じょくすいへだてなし」と「和讃」に述べられている通りであります。
 ただいま、み教えにうなずき、「うべきこと」を「えたり」と、しかと身にうけて生きる確かさがあるのであります。
 一日一日を、み仏のさわりなき光の中を精一杯、念仏とともにのりこえて生きるそのままが真実の世界・浄土に き生まれさせていただく道なのであります。  



※『真宗法語のこころ』 中西智海師
本願寺出版社 
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