☆☆ 法 話 ☆☆
 
【 私の如是我聞 】

                   
第131回 逆境ぎゃっきょうをのりこえていく更新 2022年7月
          
 『 「歓喜かんぎ」といふは、
  「かん」は身をよろこばしむるなり、
」はこころに  よろこばしむるなり、
 うべきことをえてんずと、かねてききよりよろこぶこころなり 』

          【『一念多念証文いちねんたねんしょうもん』】      
 
 
 道を求める人たちとの出会いの中で、
「宗教・念仏の世界に入るには何か悲しいとか痛ましいことに出会わない限り考えられないのでしょうか。
 つまり、宗教・念仏は逆境のためにあるのでしょうか」
 という問いがありました。
 これは、それなりに、まじめな問いであって考えさせられたことであります。
 しかし、よくよく考えてみますと、いや実態をよくみさせていただきますと、そうはなっていないことがわかります。
 すなわち、幼いときから順調に家庭で、あるいは日曜学校で育てられた宗教の世界、念仏の道に入った人がおります。
 また、いろんな遍歴が縁となって、入信する人もあります。
 そして、悲しい痛ましい逆境から入った人も、もちろんあります。
 そういう意味では、宗教・念仏への経路としては順縁からも逆縁からもあるというのがほんとうでありましょう。
 決して悲しいこと、痛ましいことに出会わなかったら無縁のものと考えることは誤っていると言わねばなりません。
 その問いに対して
 「宗教は逆境のためにあるのではありません。しかし、宗教・念仏に生きる人は逆境を必ずのりこえることだけは確かです。」
 と答えました。
 信心のことを第十八願の願文では 「信楽しんぎょう
 と説かれ、本願成就文には、その信を「信心」とされ、楽を「歓喜」とひらいて示されています。
 そして『一念多念証文』には
 「『信心』は、如来の御ちかひをききて疑うこころなきなり」
 と説き明かされ、続いて
「『歓喜』といふは、『歓』は身をよろこばしむるなり」
 と述懐されているのであります。
 
 まことに「信心とは よろこび」であると告げられています。
 信心への経路は順縁からも逆縁からも、すなわち喜びからも悲しみからも考えられますが、信心の境地は慶びであるということであります。
 それは全人間として、つまり身も心も慶びなのであります。
 もとより、その慶びは一時的な興奮といったものでないし、「踊る宗教」といったレベルのものではありません。
 そして、単なる淡い来世に対する期待のこころといったものでもありません。
 「うべきことをえてんずと、かねてさきよりよろこぶこころなり」といわれるように、「いま」の私にひしと身にせまり心から湧き出る慶びであります。
 阿弥陀如来の大悲の中にいだかれたものは、純縁も逆縁もだきあげてのりこえる道を行くものとならしめるのであります。
 


※『真宗法語のこころ』 中西智海
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