☆☆ 法 話 ☆☆
 
【 私の如是我聞 】

                   
第129回 いのちにたしかなすくい更新 2022年5月
          
 『 無始むしよりこのかたこの世まで
  聖徳皇しょうとくおうのあはれみに
  多々たたのごとくにそひたまひ
  阿摩あまのごとくにおはします 』

 【『正像末和讃しょうぞうまつわさん』】      
 
 「宗教心とは うしろを見る眼である」と言ったのは、
 倉田百三でありました。
 大自然の前に立った人間は何と小さないのちであろうかと、ため息をついた青春の日の思い出はだれにでもあるでしょう。
 しかし、その「小さないのち」に「大きな願い」がかけられていることにめざめる時、いのちの重さと尊さにうなずくことができるのです。

 もし、人間がこの世に生まれて、ただ欲望のままに自分中心に生きて終わるならば、それこそ 流転るてんの生であり、空しく過ぐる人生であります。
 この世に何のために生まれてきたのかもわからず、何がいのちのほんとうの りどころであるかも知ることもなく、ましていのちの行方などは およびもつかないまま過ぎ去ってしまうのです。
 そのような私のいのちに、いかなる過去よりも過去からの願いとはたらきが、めざめをよびさましてくれるのであるとうけとめるところに、 いのちと人生に対する見方が変革されるのです。
 いま、 親鸞聖人しんらんしょうにんの自らのいのちに対するうなずきは、 「無始むしよりこのかたこの世まで」 この親鸞のいのちの変革のための願いとはたらきである、とされているのであります。
 始めのないめざめなき私のいのちをめざめさせるためには、 はじめなき ねがいとはたらきがなければならなかったのであります。
  無始以来むしいらいの願いとはたらきにめざめることと、無始以来のめざめなき私の姿にうなずくことは 同じでありました。
 人間を育てるのは 順縁じゅんえんばかりではありません。
  「逆境ぎゃっきょうにまさる恩師なし」という言葉もありまして、 逆縁ぎゃくえんもまた人間を育てることであります。
 親鸞聖人は、あの『観無量寿経』に出てくる 提婆だいばに、 「尊者そんじゃ」をつけてよんでおられることは意味深いことであります。
 まさに 「遠く宿縁しゅくえんよろこべ」という世界であります。
 それにつけても、自らのいのちと 群萌ぐんもうのいのちに確かなすくいをもたらす念仏の世界に うことができたのは、 かの聖徳太子しょうとくたいしの出現によるものであると、親鸞聖人はお喜びになられたのであります。
 もし、 救世観音くせかんのん化身けしんとしての 聖徳皇しょうとくおうのあわれみがなかったならば、自らの 「回心えしん」もありえなかったのであると、味わっておられるのであります。
 思えば、信心の世界においては、この世の歴史的出会いはそのまま「無始むしよりこのかた」 の願いとはたらきの具現化ぐげんかであると味わわれるのであります。
 それはまさに 「多々たた」(父)のごとく 「阿摩あま」(母)のごとくと、体温の感ずるうなずきであったのであります。  
 


※『真宗法語のこころ』 中西 智海師
本願寺出版社 
お経の本やCDや仏書の販売 西本願寺の本
本願寺出版社


本願寺
ホームページ
本願寺ホームページにて、本願寺の法話のラジオ放送を本願寺ホームページのウェブサイトで聞けます。
沢山の法話が聞けます。ぜひ一度聞いてみて下さい。
西本願寺ホームページ



今生最後と思うべし 一このたびのこのご縁は 我一人の為と思うべし 一このたびのこのご縁は 初事と思うべし 一このたびのこのご縁は 聴聞の心得


トップページへ   法話に戻る   書庫をみる