☆☆ 法 話 ☆☆
 
【 私の如是我聞 】

                   
第125回 凡夫ぼんぶのはからいを転ず更新 2022年1月
          
 『 弥陀智願みだちがん広海こうかい凡夫善悪ぼんぶぜんあく心水しんすい
  帰入きにゅうしぬればすなはちに 大悲心だいひしんとぞ てんずなる 』

         【『正像末和讃しょうぞうまつわさん』】      
 
 海にはいろいろな表情があります。荒れ狂った海、終日おだやかな春の海、涙でかすんだ海、からりと晴れた青い海など、それぞれの感慨があります。
 親鸞聖人も「海」には、深い おもいがあると思われます。
 おそらく青少年のころは、鏡のような美しい琵琶湖はみられることがありましても、どす黒く荒れ狂った海は見られたことがなかったでありましょう。
 その聖人が、真の仏法を知らない、時の権力者によって流罪の身となり、北陸は 居多こたケ浜に上陸された時のなまり色の雲と底知れぬ海をみられた時はどのような感慨でありましたでしょう。
 聖人の著述には「海」という字は百回以上も出てまいります。これは偶然なことではないと思われます。
 その海は、煩悩の海も海であれば、本願の海も海であったわけです。
 海には、①窮満の意味②転成の意味③不宿【しかばねを宿さず】の意味があると言われています。
 煩悩の満ちみちているところ、阿弥陀如来の本願が満ちみちているのであります。
 煩悩の悪心・善心のゆれるところ、如来の大悲心のはたらきがあり、必ず凡夫の心を転じかえなすはたらきがあるのです。
 そして、本願の世界に帰入すれば一味の世界であり、無意味な屍はあり得ないということが知らされるのであります。
 いま、この法則は 曇鸞大師どんらんだいしの『論註』のこころを和讃されまして 「万川ばんせんの水が海に流れて一味のうしおとなるように、弥陀の深厳な智慧の本願に凡夫の善心や悪心が 帰入すると、他力の信心の味わいにかわるのである」と領解されたのであります。
 思えば、聖人の「海」の実感がはそのまま、 華厳けごんを中心とする大乗仏教のいわゆる一乗海の思想にまで根ざすところとなって、 雄大な海の深みとなっていることは言うまでもありません。
 ですから、ここでの善心は教えの上では、雑修雑善の自力の心とも解釈され、悪心とは五逆・謗法などとも領解されている通りでありましょう。
 いま、これらの凡夫のはからいのこころは弥陀の智願の広海に帰入する時、智慧の願力のはたらきで、いわゆる「海」のいわれのように 大悲心に転じかえ成さしめられるのでありました。
 まことに、如来の広い智慧の本願にうちまかせて生きるめざめの人生は、荒れ狂う煩悩の水も、こざかしい凡夫のはからいを転じて、一乗海の一味の世界に 転成せしめられる妙味のあることを告げて下されているのであります。
 


※『真宗法語のこころ』 中西智海 
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