☆☆ 法 話 ☆☆
 
【 私の如是我聞 】

                   
第123回 たまわりたる信心しんじん  更新 2021年11月
          
 『 如来にょらい作願さがんをたづぬれば
  苦悩くのう有情うじょうをすてずして
  回向えこうしゅとしたまひて
  大悲心だいひしんをば 成就じょうじゅせり 』

     【『正像末和讃しょうぞうまつわさん』】      
 
 み仏のことを「如来」と尊くよばせていただくのですが、この如来とは真実(如)・まこと から来たれるもの ということで、み仏のあり方を よくあらわした言葉というべきでありましょう。
 すなわち、阿弥陀仏とは、真如から来たって はたらき通しであり動き通しなのです。
 み仏とは「はたらきもの」と 領解りょうげすべきであります。
 では 阿弥陀如来あみだにょらいはどこへ向かってはたらき通しなのでしょうか。
 それは、苦しみ悩むもの、「苦悩の有情」に向かってはたらき通しなのであります。
 「苦悩」こそ阿弥陀如来のはたらき場なのであります。
 動物には苦痛はあっても苦悩はありません。
 人間は苦痛も知っておりますが苦悩こそ、いのちの仕組みであるといってもよいでしょう。
 一見、華やかな現代に、最も明るく明日への希望を抱いていなければならない少年の自殺、人生に最も自信をもって生きてゆかねばならない壮年の自殺、 そして孤独地獄ともいわれる状況での老人の自殺など、深刻な悩みがあらわになっています。
 その苦悩に向けてはたらくものこそ阿弥陀如来であると説かれるのです。

 衆生病むが故に 菩薩また病む

 大乗仏教のこころが極端にあらわされている言葉でありますが、衆生の悩みが、わが悩みであるという一体の思想、同体のいわれが告げられています。
 いま、阿弥陀如来は苦悩の有情を捨てることができず、同体の大悲をもってはたらき通しなのであります。
 悩めるわれとわれらは苦悩の根がどこにあるかもわからない無明〈ほんとうの 智慧ちえがない〉のあり方をしているのです。
 いま、阿弥陀如来は、同体の慈悲を成就してくだされることにより、苦悩の根を知らせてくだされ、それ故に、仏に成らせる一切の真実功徳をめぐみ施して、 すなわち回向してくだされたのであります。
 まことに、阿弥陀如来の回向〈めぐみほどこし〉こそ、浄土真宗のありがたさであるといわねばなりません。
 私のどこを探してもありえなかった信心が開き発されたとは、阿弥陀如来からの「たまわり」のほかはなかったのであります。
 この「たまわりたる信心」こそ、まさに感動と慶びの論理としか、言いようのない世界で、「回向」とは よろこびのいわれともいうべきであります。
 めぐみ施しのいわれを領納する世界は わがもの という私有性がすたってゆく世界であります。
 


※『真宗法語のこころ』 中西智海師
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