☆☆ 法 話 ☆☆
 
【 私の如是我聞 】

                   
第122回 是非善悪ぜひぜんあくと見る立場更新 2021年10月
          
 『ある人びとが 「真理しんりである、 真実しんじつである」と主張しているその見解を、他の人びとは
  「虚偽きょぎである、 虚妄こもうである」と 批評ひひょうしている。』

     【『経集きょうしゅう』】      
 
 聖徳太子の十七条憲法をみましても、これと 同趣意どうしゅいのことが言われています。
 私の是とするところは、彼が非とするところであり、彼の是とするところは、私が非とするところである場合が、実際にしばしば起こります。
 事の是非善悪は見る立場によって、ずいぶん違ってくるものです。
 それについて、仏教の経典の中に引かれている有名な たとえがあります。
 昔のインドのある王様が、その国の目の不自由な人たちを集めて、象を手でさわらせ、象とはどんなものであるか、とたずねられたというのです。
 そうしますと、彼らは、二つの手でさわった象の体の一部から、それぞれ、とてつもないものを想像します。
 すなわち、象の足や尾や、腹や脇や、鼻などに触れることによって、象とは「桶のようなもの」であったり、「ほうきのようなもの」であったり、「太い杖」に 似ていたり、「太鼓」や「壁」と同じものであったり、また「太い なわのようなもの」であったりするのです。
 かくして、彼らの間には、己れの正しいことを主張して争いが生じ、とうとう収拾がつかなくなってしまったといわれます。
 いったい全体どれが正しいのか、といって一つとして象の全体に相当する見方はありません。
 かと言って、また、ことごとく誤りかといえば、一概にそうともいえません。
 象の部分部分をとれば、やはり、「棺桶のようなもの」であり、「ほうきのようなもの」であるに相違ないからです。
 つまり、自分だけが正しくて他は全て誤りとしたところに問題があるといえましょう。
 われわれが事に当たって自ら判断を下すときにも、これと同じような誤りを犯すことがあります。
 絶対に誤りがないと思っても、別な立場から考えなおしてみると、その強い自信も、いささか疑わしくなってくることが、おうおうにしてあります。
 ですから、十人いて十色の主義、主張がなされても、決して故なきことではありません。
 そうした意見の衝突を、さらに高いところから客観的に、冷静に見ることが、お互いに出来たなら問題はありませんが、取りかえしのつかないけんかや争いが、 ごくつまらない見解のずれ、意見の対立に端を発することは少なくありません。
 平和への運動を企画する集まりが、意見の分かれたために、本末てんとうの大混乱を招くなどという矛盾した話は、よくみられる実際の話です。
 見方、考え方の違いは人それぞれのことですから、あって当然だと思います。
 むしろ、自己の信念は固いに越したことはありますまい。
 しかし、信念にとらわれるあまり、愚かな争いをはじめるようでは、大変つまらないことだと思います。
 
 


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