☆☆ 法 話 ☆☆
 
【 私の如是我聞 】

                   
第119回 悲智ひちの願いとはたらき更新 2021年7月
          
 『釈迦しゃか弥陀みだ慈悲じひよりぞ 願作仏心がんさぶっしんはえしめたる
  信心しんじん智慧ちえにいりてこそ  仏恩報ぶっとんほうずる とはなれ』

 【『正像末和讃しょうぞうまつわさん』】      
 
 私たちは、この世に生まれた時から、仏に成ろうという心があったのでしょうか。
 かつて、ある座談会で「ぼくは仏に成ろうなどとは思いません。人間に成るに精いっぱいです」と話した青年がいました。
 その時、私は次のように言いました。
 人間が真の人間に成る道と仏に成ろうとする道は、離れていないというべきでしょう。
 人間のいのちの究極のめざめのあり方を、仏というのですから、と。
 そして「人間に成るのに精いっぱいです」という言葉は、大切なすばらしい意味をもっています。とも言ったことです。
 「成る」という言葉には、身も心も尽くして変革されていくというめざめの深まりが感じられます。
 医者が本当の医者に成ろうとする時、教師が真の教師に成ろうとする時、あるべき姿に向かって精進すればするほど、 そうありえない現実の自身を悲しむ世界が生まれてくると言わねばなりません。
 いま、成ろうとして成りえない私のいのちに、大いなる智慧と慈悲の願いがかけられていたのであります。
 それは、悲母にもたとえられる阿弥陀如来の 悲心招喚ひしんしょうかんと、慈父にもたとえられる釈尊のすすめ
発遣はっけん)であったのです。
 それを
釈迦しゃか弥陀みだ慈悲じひよりぞ 願作仏心がんさぶっしんはえしめたる』
 と和讃されたのです。
 この和讃は、 善導大師ぜんどうだいしの 『観経疏かんぎょうしょ』の
 『仰いで釈迦 発遣はっけんして、 おしへて西方に向かへたもふことを かぶり、また 弥陀みだ悲心招喚ひしんしょうかんしたまふによって、いま二尊の おんこころに信順して、水火の二河を顧みず、念々に わするることなく、かの願力の道に乗じて・・・・』や
  『般舟讃はんじゅさん』の
 『 釈迦如来しゃかにょらいはまことにこれ慈悲の父母なり。 種々の方便をして、われらが 無上むじょうの信心を 発起ほっきせしめたまえり」に依られたといわれています。
 まことに、阿弥陀如来と釈尊の悲智の願いと心によって、大菩提心である信心を 発起ほっきせしめられたのであります。
  釈迦弥陀しゃかみだの慈悲によって、信心の 智慧ちえがめぐまれるというのは、まことに趣きのある表現であります。
 仏の智慧を領受した信心であるから、信心は智慧なのです。
 しかし、それはそのまま、 弥陀釈迦みだしゃかの慈悲のはたらきであったといわれるのです。
 もともと、仏に成れるような私でないものが、たまわりたる信心によって、仏に成らせていただくのですから、無限の報謝の念が湧くのであります。
報恩行ほうおんぎょうとは、やってやってやりぬいて、己の功績を語らない実践でありましょう。
 それは、ただ一つの無私の生活と味わっていきたいものであります。
 



※『真宗法語のこころ』 中西智海 師
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