☆☆ 法 話 ☆☆
 
【 私の如是我聞 】

                   
第117回 生命いのちを尽くしてゆく道更新 2021年5月
          
 『如来二種にょらいにしゅ回向えこうを ふかく しんずるひとはみな
 等正覚とうしょうがくにいたるゆゑ 憶念おくねんしんはたえぬなり』

正像末和讃しょうぞうまつわさん』       
 
 一般に「お念仏を申して浄土に往生する」という「浄土教」は、浄土に くことが最終駅のように思われているようです。
 しかし、この和讃は 「如来二種にょらいにしゅ回向えこう」と述べられています。
 すなわち、 往生浄土おうじょうじょうどの相 (往相おうそう)と 還来穢国げんらいえこくの相 (還相げんそう)の二種の めぐみ であると言われています。
 思えば、浄土に き生まれる目的とは何かをたずねてみれば、それは「仏に成る」ことでなければなりません。
 「本願ほんがんを信じ念仏申さば仏に成る(歎異抄)」といわれるゆえんであります。
 では、仏に成るとはどういうことか。仏とは
自覚覚他覚行窮満じかくかくたかくぎょうぐうまん」(善導大師)と説かれています。
 すなわち、自らめざめ、あらゆるものをめざめさせ、その めざめ の はたらき が窮まり満ち満ちているのが仏であると説き明かしてくだされています。
 つまり、 自利利他円満じりりたえんまん自利利他じりりたの完成が仏に成るということであります。
 ですから、浄土に き生まれて仏に成らせていただくということは、あらゆるものに めざめを よびかけ、それを果たし遂げるために、めざめ なき世界に かえり来たって はたらかせていただく人格になるということであります。
 およそ 大乗仏教だいじょうぶっきょうのこころは、 「衆生しゅじょう病むが故に 菩薩ぼさつまた病む」と言われているように、 衆生しゅじょうが悩むとき 菩薩ぼさつは悩み、衆生が めざめる時、菩薩も めざめるのであります。
 まさに同体の慈悲であり、 同悲同苦どうひどうくのこころであります。
 この 大乗菩薩道だいじょうぼさつどうのこころの極点ともいえる世界が、 法蔵菩薩ほうぞうぼさつ本願ほんがん・第十八願の
若不生者・不取正覚にゃくふしょうじゃ・ふしゅしょうがく」であります。
 もし、あらゆる衆生が、浄土と説かれる 真実まことの世界に き生まれて仏に成らせることができなければ、自ら 阿弥陀仏あみだぶつと呼ばれる仏には成らないとの誓いであります。
 この 「若不生者にゃくふしょうじゃ」(利他) 「不取正覚ふしゅしょうがく」(自利」が まろやかに満ちている 誓願せいがんを信じるもののこころは、つねに、自ら仏に成る道は、そのまま わずらい悩みから離れられない世界に たちかえって、あらゆるものの めざめ のために はたらき続けることであります。
 それは、つねに み仏の本願を おもい念じ、み仏の本願を おもい念ずる そのままが、浄土に き生まれることは、そのまま 煩悩ぼんのうの林の中でも かえり来たって はたらかせていただけるものであるという思いとなるということであります。
 この 往相おうそう還相げんそうの めぐみを、いま、私の口から きあがる お念仏の ただ中に味わい、完全な自利利他の仏に成る世界を期しつつ、信心の行人として、 その こころで、生命を尽くしてゆく道を ゆかせていただきたいものであります。



※『真宗法語のこころ』 中西 智海
本願寺出版社 
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