☆☆ 法 話 ☆☆
 
【 私の如是我聞 】

                   
第115回 自利利他じりりた完成への道更新 2021年3月
          
 『浄土じょうど大菩提心だいぼだいしん願作仏心がんさぶっしんをすすめしむ
 すなはち願作仏心がんさぶっしん度衆生心どしゅじょうしんとなづけたり』

         【『正像末和讃しょうぞうまつわさん』】       
 
 かつての評論家の扇谷正造さんが、テレビの座談会で次のようなことを語っておられました。
 近所の子供に「大きくなったら何になる?」と話しかけたら、男の子が「やはりサラリーマンがいいや」と答えたそうです。
 「そう、サラリーマンとして一生懸命努力して、会社の社長になるの?」と言うと「そんな難しいものには ならないヨ。普通のサラリーマンがいいよ。 せいぜい係長かな。気楽でいいから。」と。
 隣の女の子は「大きくなったら大人になるわ」と言ったそうです。
 扇谷さんは、この話を紹介して「現代の子供には理想とか遠大な希望、そして それに向かって努力するという考えが、極めて薄くなっている。 そしていま一つは、自分の気楽さだけを求め、社会や他人を大切にする、いわゆる思いやりの心が育っていないのではないか」ということを指摘されていました。
 人間だけが未来を考える生きものである、と言われています。
 すなはち、人生の目標に向かって生きる、希望に生きる生きものといってよいでしょう。
 理想に向かって、たとえ苦難な道でも、それを超え って生きる精進の道を歩むのでなければなりません。
 このような思いをめぐらす時、この和讃には、味わい深い意味があると思われてなりません。
 この人生は、仏といわれる自利、利他の完成に向かって生きる、「大菩提心」をいただき生きる道でなければならないということであります。
 「仏に成る」ことをめざす人生は、そのまますべてのものをも、めざめさせねばならないという心が宿っている、というのであります。
 言いかえると、なぜ仏に成ることをめざさねばならないのかというと、仏に成ってかえってこなければならないほどの現実があるのではないか、ということであります。
 仏さまのさとりに向かう心に、この世への悲しみ、痛みの心が宿っていると言わねばなりません。
 「大きくなったら大人になる」というような、悩みもない、気迫もない、従ってあるべき世界への不断の精進という心がない人は、真の人間ではない と言うべきでしょう。
 「サラリーマンでも気楽な方がよい」という言葉の根っこには、自我中心の わがままなエゴ【利己】の思いが 沈潜ちんせんしていることが見すかされます。
 この本能的ともいうべき、根深い利己心と気楽さに流されようとする人間のあり方は、変革されねばならないのです。
 私たちは、自利、利他の完成をめざす大菩提心をいただき、仏に成る道を歩まねばなりません。
 それは、あらゆるものへの深い慈愛に生きる道であります。
 


※『真宗法語のこころ』 中西智海
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