☆☆ 法 話 ☆☆
 
【 私の如是我聞 】

                   
第113回 生命のりどころ発見更新 2021年1月
          
 『弥陀みだ本願ほんがん信ずべし
  本願ほんがん信ずる人はみな
  摂取不捨せっしゅふしゃ利益りやくにて
  無上覚むじょうかくをばさとるなり』

         【『正像末和讃しょうぞうまつわさん』】       
 
 彦根市の法友から一通の手紙をいただきました。
この法友は本願寺の御正忌本願寺特別講演や仏教婦人会総連盟総会の記念講演などで私の話を聞いてくだされたようですが、 対面させていただいたのは二月初旬の大阪津村別院でありました。
 そのお手紙には「先日お話くださいました骨不全の方のように、私も二男の出産後より出産後より難病のリューマチを患い、京大病院で再起不能と申され、 歩行不能に近い状態が長く苦悩にあけくれました。
 今は大分治りましたが、少々の無理で突然動けなくなったり、 副腎ふくじんホルモン剤の長期服用で薬害と後遺症に悩む身でございます。
 しかし如来さまは智慧の光で心の しんまで満ち満ちてくだされ、苦は苦ながら「衆生病むが故に菩薩また病む」のお言葉を肝に銘じ、 法の光に照らされお念仏にあたためられ励まされての人生でございます。
 御正忌報恩講の特別講演の時、弥陀の五劫思惟のご本願は私一人のためであること、悩みあるところ本願あり、苦悩の有情のあるところ如来の 作願さがんがあること、如来さまは真如より私一人のために来たりて はたらきづめ、かかりづめであることをお聞かせたまわり、苦しいながらも乗り越えさせていたたげける道がひらけ 「宗教の世界は人生の驚きを知らせてくださいます・・・・」と受けたまわり、尊さ、有難さで涙、涙でお聞かせいただきました。」と確かな筆で書かれていました。
 まことに、人間の悲しみを知らずして如来の悲願はうけとれないとでもいうべきでありましょうか。
 言いかえれば、如来の悲願のはたらきの場は人間の悲しみであるというべきでしょうか。
 まさに如来の本願のはたらき場は苦悩の底でありました。
 であればこそ「弥陀の本願信ずべし」であります。
 わずらい悩み、苦しみ悩む只中に生きるこの私のため発されたのが阿弥陀如来の本願でありました。
 「すべての有情がまことの世界(浄土)に往って自分と同じ仏に成ることができなかったら、自らの正しい さとりはなりたたない」との誓願であります。
 ですから、その誓願をまうけに領受する人はただちに 摂取不捨せっしゅふしゃ利益りやくにあずかり、やがてこの上ない さとりを得ることができるといわれるのです。
「本願信ずる人はみな  摂取不捨せっしゅふしゃ利益りやくにて  無上覚むじょうかくをばさとるなり」と和讃されたこころであります。
 思えば悲しい悩める私にこそかけられた阿弥陀如来の悲願にめざめ、生命の りどころを発見し、 おさめ取って捨てない大いなる慈悲にいだかれ、この上なき さとりへ向かう人生に掌を合わさせていただきたいものであります。
 


※『真宗法語のこころ』  中西智海師
本願寺出版社 
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