☆☆ 法 話 ☆☆
 
【 私の如是我聞 】

                   
第111回 てんじかえ成すはたらき更新 2020年11月
          
 『南無阿弥陀仏なもあみだぶつをとけるには
  衆善海水しゅぜんかいすいのごとくなり
  かの清浄しょうじょうの善身にえたり
  ひとしく衆生しゅじょう
   回向えこうせん』 
         【『高僧和讃こうそうわさん』】       
 ある高校のPTAの講演会に ご縁をいただいた時、座談会の席になって一人の母親から次のような言葉が出てきました。
「いつも、学校の先生がおっしゃるように勉強しなさい、勉強しなさいと子供に一生懸命言うのですが、口答えして困ります。
 それにもう、このごろは子供には理屈では勝てません。どうしたらよいものでしょうか」と。
 私は、この言葉を聞いて、何か背すじが寒くなるように感じたことであります。
 そこで私は言いました。
「子供に 理屈で勝って何になりますか」
「うけおいのように、ただ勉強しなさい、勉強しなさい と言いっぱなしで、どうして心が通じるでしょうか」と。
 母と子が、理屈で勝ったらよい などと考える親の方に問題があります。
 私はその時、次の話を思い出して、そのお母さんに申しました。
 学校の先生も友達からも見放されそうな息子が、最後に母親が仏壇に を合わせ「こんな子供になったのは、この母親が悪いのです。
 子供の心の底を のぞこうともしないで 親の立場ばかり気にしていた私です。
 この私の自分中心のこころを照らし出して下さる智慧と、もうとう捨てないという慈悲の み仏に うなずくばかりです」という、その後ろ姿をみて ハッと めざめたというのです。
 人間を育て、人の心の底を ひるがえすのは理屈でもなければ命令でもないのです。
 それは、まさに智慧と慈悲であるといわねばなりません。
 思えば、この自分本位の しぶとい私に、はたらき通しの み仏のこころを、願いを、時代と人間を貫き通して説いてくだされたのが七高僧でありました。
 この法語の和讃は、『高僧和讃』の結びの一首であります。
 み仏のこころを 南無阿弥陀仏と成就してくだされたことを 身にかけて説き明かしてくだされた高僧のいのちを たたえられた聖人は、 南無阿弥陀仏の名号に あらゆる徳が おさめられ、あたかも海水のように きわまり満ちており、どのような濁りをも 転じかえ成すはたらきをもつ智慧であることを示されました。
 そして いま、その功徳を この身に めぐまれたからには、その広大な功徳の はたらきを 一人じめにしないで、生きとし生けるもの すべてに平等に 施さずにはおれません、という和讃のこころであります。
 まことに力強さを感じさせられる和讃であります。
 今日こんにちの荒々しい ものの考え方や、生き方を思うにつけ、この和讃を口ずさみながら、 いさみの念仏、感謝の念仏の道を歩ませていただきたいものであります。
 


※『真宗法語のこころ』  中西 智海
本願寺出版社 
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