☆☆ 法 話 ☆☆
 
【 私の如是我聞 】

                   
第109回 本願ほんがんのまことを知る更新 2020年9月
          
 『曠劫多生こうごうたしょうのあひだにも
  出離しゅつり強縁ごうえんしらざりき
  本師源空ほんしげんくういまさずは 
  このたびむなしくすぎなまし』
         【『高僧和讃こうそうわさん』】
         
 五月は親鸞聖人のご誕生日の月であり、蓮如上人のご往生の月であります。
 親鸞聖人のご誕生を たたえさせていただくことによって、この私が人間に生まれさせていただいた意味を たずね、蓮如上人のご往生を しのぶことによって、人間の一生を思い、人生の終わりをどう うけとめる人間に成らせていただくかを 聞思(もんし)しなければなりません。
 もし人間に生まれさせていただきながら、本能のままに動きまわり、欲望のおもむくままにしか生きなかったならば、自我中心の からに閉鎖された いわゆる
「まよい」「生死」の中に 流転るてんしてゆくいのちであったのです。
 親鸞聖人は、論・寒・湿・貧の道場である比叡山で学行に徹し、人間の いつわることのできない実態を見て「山を出で」て六角堂に 参籠さんろうされ、聖徳太子の 示現じげんの文によって法然上人を訪ねられました。
 
 
 たづねまゐらせて、法然上人にあひまゐらせて、
また、六角堂に百日 こもらせたまひて そうらひけるやうに、又、百か日、降るにも照るにも、いかなる大事にもまゐりてありしに【中略】 生死出づべき道をば、ただ一すぢに仰せられ候ひしを、うけたまはりさだめて候ひしかば、「上人のわたらせたまはんところには、人はいかにも申せ、たとひ 悪道にわたらせたまふべしと申すとも、世々生々にも迷ひければこそありけめ・・・」
 

 と『恵信尼消息』(えしんにしょうそく)に記されています。
 まことに道を求めることの厳しさと、その厳しさを通して 「い」えたことの たしかさと慶びが込められています。
 親鸞聖人と法然上人との歴史的めぐりあいは、そのまま 源信げんしん善導ぜんどう道綽どうしゃく曇鸞どんらん天親てんじん龍樹りゅうじゅ、そして釈尊の人と時代を貫通した、歴史をこえる 弥陀みだ本願ほんがんとのめぐりあいであったのであります。
 思えば遠い昔から、このしぶとい親鸞の「めざめ」一つのために、はたらき通しの 弥陀みだ本願ほんがんと説かれる「まこと」の強縁(ごうえん)を知らなかった。
 もしも、聖徳太子の 示唆しさによる法然上人とのめぐりあいがなかったならば、このいのち、 この人生を空しく終わってしまったであろう。
 まことに驚きである。 
というのが、この 法語ほうご和讃わさん)のこころであります。
 そのことは、そのまま、この私のためにかけられている 弥陀みだ本願ほんがんのまことを知らなかった私が、親鸞聖人のご誕生があったればこそ、 そのこころを 群萌ぐんもうのただ中に みちびいてくだされた蓮如上人のご一生があったればこそ、と がたくして い得た「いま」を驚きをもってうけとめ、たしかな、いのちを尽くす道を 歩ませていただきたいものであります。
 


※『真宗法語のこころ』 中西智海 
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