☆☆ 法 話 ☆☆
 
【 私の如是我聞 】

                   
第103回 必ず すくうてくださる更新 2020年3月
          
 『光明月日こうみょうつきひ勝過しょうがして
 超日月光ちょうにちがっこうとなづけたり 釈迦嘆しゃかたんじてなほつきず
 無等等むとうどう帰命きみょうせよ』
             【「浄土和讃」】
 
 日本列島に本格的な春が訪れ、桃の花から桜の花へと移り変わる四月を迎えますと、八日は釈尊の仏生会です。
 まさに花と光の中で生命の重さと尊さを みつめなおす時であります。
 み仏のご生誕を思い、 ほめたたえる人間になることは、そのまま自らの誕生を思い、 自らの生命の あり方に めざめることと別ではありません。
 み仏の生命を ほんとうに尊び、 たたえることのできる人間になることと、自らの生命の重さに めざめ生命の尊さに  うなずくことは同じと言わねばなりません。
 さて、仏さまのことを「如来」と申しますが、それは仏のよび名の一つでもあり、それが そのまま仏のあり方を示す言葉なのです。
 すなわち、仏さまとは真如(実)から来たれるものであります。
 「真実とは、真実ならざるものを見出して真実にかえなす はたらき をいう」と申すことができます。
 いま釈迦如来は この土に応じて生(あ)れたもうた如来・仏であるから「応身仏」と申し、この地球上、すなわちインドに生まれられた仏であります。
 ですから、釈迦如来が この地球上に 生まれられたのは真如・真実の いわれ と はたらきを、この地球上の すべてのものに説き明かすためでありました。
 如来、世に 興出こうしゅつしたまふゆえは、ただ弥陀の本願海を説かんとなり(正信偈)
 と述べられている通りであります。
 釈迦如来しゃかにょらいが この土に応じて 生まれたもうたのは ただ、 阿弥陀如来あみだにょらい本願ほんがんの いわれ と はたらきを説くためでありました。
 わずらなやみから離れることのできない 群萌ぐんもう、 つまり苦しみ悩む 有情うじょうを必ず すくう という阿弥陀如来の本願を説き明かしてくだされたのが釈迦如来でありました。
 この世に何のために生まれ 何がほんとうの依りどころかもわからず、まして生命の 行方ゆくえなどは知るすべもなかった私に、限りなき 智慧ちえと 限りなき 慈悲じひの すべての徳を、本願の通りに成就した南無阿弥陀仏の名号として 廻施えせして必ず すくうてくださるのが阿弥陀如来であります。
 それは まさに世に超えた本願であり、日光、月光も およばない超日月光と名づけられる智慧と慈悲の はたらき なのであります。
 阿弥陀如来の光明は十二の光として説かれ、本質的には 無碍光むげこうに おさめられ、総合的には たとえようもなく超えすぐれていると説かれているのです。
 釈迦如来は、この光明を言葉を尽くして たたえられたが、ほめ尽くすことができないのが阿弥陀如来の本願、 名号のいわれであると述べられているのであります。



※『真宗法語のこころ』 中西智海師
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