☆☆ 法 話 ☆☆
 
【 私の如是我聞 】

                   
第101回 転成のよろこびの生活更新 2020年1月
          
 『慈光じこうはるかにかぶらめし ひかりのいたるところには 法喜ほうきをうとぞのべたまふ 大安尉だいあんい帰命きみょうせよ』
             【「浄土和讃」】
 毎年、正月になりますと、ひときわ光をたたえられる 和讃わさんが朗々と響いてくるのを おぼえます。
 それは宇宙のすみずみまでおおうようなスケールで光の交響楽をかなでるように、 如来にょらいの徳のひろさと深さを知らされることであります。
慈光じこうはるかにかぶらめしー如来の 大慈悲心だいじひしんのはたらきとしての光明は、時間的には三世(過去・現在・未来)を貫き、 空間的には十方(東・西・南・北・四維・上・下)を照らすというのです。
 十二のひかり 放ちては
 あまたの国を 照らします
 生きとしいくる ものすべて
 このみひかりの うちにあり(しんじんのうた)
 およそ、信心の 行者ぎょうじゃとか念仏申す身になるということは、いまこの身が、はかりしれない光に照らされ、 つつまれている事実を見出せたということではないのでしょうか。
 思えば、一人よがりの せまい世界に閉じこもり、他をかえりみることもなく、従って、一人 やみの中に悩んでいた私が、 如来にょらいの  慈光じこうによって苦悩の根まで照らされ、明るいひろやかな世界に眼を開かせていただくことこそ 明晰めいせきの眼としての「たまわりたる信心」の世界というべきでありましょう。
 その信心のめざめの世界は、そのまま慶びの世界でありました。
信心歓喜しんじんかんぎ」と説かれるゆえんであります。
 もとよりその慶びは一時的な興奮や 恍惚こうこつの境地ではありません。
 「法喜ほうき」の  左訓さくんに「みのりをよろこぶなり」となっております。
 まことに、如来の慈光は生きとし生けるものの苦悩を転じて真の喜びをもたらしてくださることを、しかと領受すべきであります。
 明日、何が起こるかわからないと不安と恐怖のこころで生きるのではなく、何が起こっても光の中で生命を尽くさせていただきます。
と人生を背負ってゆける人間にさせていただくのです。 
 まさに転成のよろこびの生活であります。
 そこには不安と恐怖のこころではなく、大いなる安らかさに生かされる世界であります。
 この苦悩を転じてよろこびと成し、不安を超えて安らかさに生かしてくださるのが 「大安尉だいあんい」の 阿弥陀如来あみだにょらいです。
大安尉だいあんい如来にょらい信順しんじゅんし、慈光に わせていただくものは身も心も、喜びのうちに生命を全うできるのでありましょう。
 それ 衆生しゅじょうありて、この光に もうあふものは、
 三垢消滅さんくしょうめつし、 身意柔軟しんいにゅうなんなり。
 歓喜踊躍かんぎゆやくして 善心ぜんしん生ず (仏説無量寿経・巻上)
と説かれるのはそのこころであります。 
 



※『真宗法語のこころ』 中西智海
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