☆☆ 法 話 ☆☆
 
【 私の如是我聞 】

                   
第100回 彼岸に達する更新 2019年12月
          
 『数多かずおおき人びとのうち 彼岸ひがんに達するは まこと、かずすくなし、あまたの人はただ、 このきしの上に 右に左に さまようなり。』
             【「法句経」】
 「他力易行たりきいぎょうの念仏」だとか、「あらこころえやすの安心や」とも言われながら、 『大無量寿経』には「浄土へは行き易くして行く人なし」とも書かれてあります。
 この経文でもまた、あまたの人は ただ この岸の上に右に左に さまようばかりである、と説かれてあります。
 「彼岸」とは 煩悩ぼんのうの迷いを破った真実の世界であり、「この岸」とは 喜怒哀楽きどあいらくに心の安らぎを知らない私たちの世界のことであります。
 さて、それでは、この迷いの世界から彼岸に達することは容易なのか、それとも難なことなのか、いったい どちらが本当なのか迷ってしまいます。
 
 人間の迷える姿は『大無量寿経』にも克明に描かれていますが、この経文と同じように岸上に右往左往する姿として描かれたものに、 善導大師ぜんどうだいし二河白道にがびゃくどうたとえがあります。
 ひとりの旅人が長い旅路を歩んでいきますと、 突如とつじょとして二つの河が眼前に現われました。
 一つは火の河、いま一つは水の河で、その間には きわめて狭い白い道が細長くつづいています。
 火と水は絶えず その小道を なめているので、進めば火に身を焼かれてしまうか、 激流げきりゅうに押し流されてしまいそうです。
 退いてもと来た道を帰ろうとすれば、群がる 盗賊とうぞく猛獣もうじゅう、あるいは毒虫などが この旅人を殺害しようと迫ってきています。
 絶体絶命の境地に立たされた旅人は、この狭い 白道びゃくどうを進めば、おそらく自分は水火の河におちて死んでしまうだろう、と恐怖の念にかられます。
 これが迷える人生の姿ですが、この たとえには さらに、この旅人が 迷いの生活の中に一途の光明を見出す道程が描かれてあります。
 すなわち、ここにおいて旅人は決断するのです。
 「進退いずれにしても自分は死をまぬがれないのだ。
 それならば自分は眼前に連なる この一本の小道を まっすぐに前進しよう」
 こう考えた時に、こちらの岸からは 「なんじ、意を決して この道を行け」と  すすめる声があり、かなたの岸からは 「なんじ水火すいかの河に おちることを おそれずに直ちに来たれ、われは なんじまもろう」という声が聞こえてまいります。
 かくて旅人は水火の二河を かえりみず、意を決して白道を まっしぐらに歩んで行きます。

 この決断せる旅人の姿が、信仰に生きる人の姿でありましょう。
 それは厳しくも 純正一途じゅんせいいちずな姿であります。
 この旅人にして、必ず彼の岸に到達しうると説かれてあることを思うとき、 「きやすの浄土」といい、また「往く無人なし」と説かれる教えの意味がわかるような気がするのです。



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