2019年12月 第98話

朝事*住職の法話

仏様ほとけさまに呼ばれている身」
     
 年末は一年の総決算、「この一年はどうだっただろうか?」と自身を反省する時期でもありましょう。
 人間関係で、「何故こんなこと言われないといけないのだろう?言ったもの勝ちだな?」と思ったこともありました。
 しかし、「今、自分はこんなに腹立たしい悔しい思いをかみしめているけれど、同じ気持ちを他人に与えたことがあるのではないか?」
 そんなことも、ふと思ったりしますね。

 人間とは自分では気づかないうちに、どれくらい他人の心を傷つけているか分からないのではないでしょうか?
 ある信者の言葉に、「自分の口から出るときは二分釘でも、相手の心に届く時は五分釘になって刺さってしまう。」というような意味の言葉がありました。
 「たった一言が人の心を傷つける。たった一言が人の心を暖める」
 「一言」というものに気をつけないといけないと、しみじみ思う次第です。

 浅原才一さんの歌にこのような歌があります。
 「腹を立てるな 腹を立てると 親を泣かす それでは法が 広まらぬ 」

 そういう腹立ちが止まない私に、仏法聴聞の場が恵まれていることが、とても有難いご縁だと思います。

 浅原才一さんは、こう歌っておられます。
 「腹が立ったら 念仏申せ 仏もぶつぶつ なもあみだぶつ 腹が立ったら 念仏申せ 仏も心で なもあみだぶつ」

 腹が立ったら、腹が立った そのまんま 如来さまの前に身を置いてみたいものです。
 そして、その やるせない思いを、憤りを親様、如来さまに聞いてもらうことが出来るんですよね。
 気持ちを誰かに伝えると言う事は、やはり少し落ち着いてくるのではないでしょうか。

 お念仏を申させて頂くということは、触光柔軟(そっこうにゅうなん)の願、身も心も和らぐ世界が恵まれてくるんですね。
 不平な不満や不足や怒り腹立ちばかりの私の口にも、お念仏、なんまんだぶ が出て下さる。
 
 ある先輩の僧侶は
「腹立て、得することは、千に一つもない。その一つも長い目で見たら損している。これで万事トラブル解決」
と言われました。

 日頃から、仲良くしていなければ、何か頼みたいことが起こっても、頼めなくなってしまいますよね。
 「全ての人とつながり合っている。」という仏法の縁起の教えは深いですよね。

 源佐さんという妙好人の言葉に「困った時にゃ お念仏に相談しなされや」という言葉があります。
 次のような言葉もあります。
 「仏の心は不思議なものよ 眼には見えねど 話ができる 仏と話をするときは 称名念仏これが話よ」

 叉、悪を思い、常に欲の出し過ぎたり、腹立ててばかりだと、血液が濁って病気の原因になってしまうそうですね。
 「仏法第一、親に孝行、他人に親切」をモットーにしたいものです。

 他人に親切することも勿論大切ですが、自分の身も尊いもの。
 怒り憎しみの感情でストレスを溜めて、自分の心身を痛めることも慎みたいものです。
 「生かされている命を大切に」生かされている我が身を大切にして粗末にしないようにしたいものです。

 「お念仏の道は、おかげさま と生かされ、有難うと生き抜く道である」
 身動きとれない自我の私に、呼びかけて下さる声があります。
 それが、南無阿弥陀仏という仏様の呼び声であります。勿体ない事です。


 人間というものは、自分ほど可愛いものはないわけですよね。
 そういう「自分が一番可愛い」という者が集まり、世の中を作っているのですから、ある意味で、ぶつかるのことが多いのが仕方ないことのかも知れませんね。

 「他人に褒められた時は、自分がほめられたのではなくて、自分の後ろの仏様が誉められたんだと思え。」
 「他人に誹られたら、仏様が、その人の口を通して私に注意されているのだと思えばいい。」
 そんなことを教えて下さった信者の方がいます。

 叉、この世の中は、自分の考えとは違う考えの人も、当然おられるわけですよね。
 だから、自分とは違う考えや意見も尊重していくことがなくて、他人を批判してばかりしているようではいけないですよね。

 自分の思いを相手に伝えようとすることも大切でしょうが、「相手の気持ちも受けとめること」も忘れないようにしたいものです。
 「自分は絶対に正しい。」と思い込んでいるから、他人に対して好き勝手なことが言えるのでしょうか?
 「自分が思うのだから正しい。」そうでしょうか?

 以前に親戚の叔父から、「自分が正しいと思うのだから正しい。そんなバカなことがあるかい!」と一喝されたことがあります。
 恥ずかしい事です。
 
 たまには、腹立てている自分に向かって「そんなに怒ると心身を痛め病気になるだけよ。」 と、自分の身に対しても親切にしてあげたいものです。

 「念仏の堪忍袋なかりせば 何にか入れん 癇癪の虫 この世は 辛抱 無常の風は時を嫌わぬ」
 「腹が立ったら、空を見上げるのや、空は阿弥陀様や。」

 空は広いですよねえ。その広さが阿弥陀様のお心なわけですよね。限りない広さですね。
 たまには窓を開いて、風を入れたいものですね。それが仏法を聴聞するということでしょう。

 ある御門徒の家に参ると、仏法の言葉が書いてある掛け軸を見ました。

「これに依れこれに頼れとみ仏は、わがため み名を授けましけり。」
 という歌が、掛け軸として、立派に表装され、床の間に掛けてありました。
 その家のお婆さんは御法義に大変熱心な方だったようで、こういう掛け軸があるようでした。
 
「これに依れこれに頼れとみ仏は、わがため み名を授けましけり。」
 この歌の作者は、ご主人をはじめとして、20年の間に23回もお葬式を営まれた方だそうです。
 それは、利井興弘先生(利井興弘 常見寺)の叔母さまに当たる方です。

 ままにならないのが人生であります。
 身内の葬儀を20年の間に23回も出す、そういう人生の逆縁の中に、仏様のみ教えを聴聞し、味わわれ、 「本当の人間の依りどころ」「畢境依」(ひっきょうえ)を見出された心境を歌ったものですね。

 「人生は、ままならない。人生は忍である。まるで刀が突き尽きられて、ただ息を殺して耐えるしかない人生の苦しみ」
 そういう「ただ耐えるしかない人生苦」の中で、仏様の呼び声を味わわれた、その心境を詠われた歌であります。

 「畢境依」(ひっきょうえ)という言葉が親鸞聖人の和讃の中に出てきます。
 「究極的な拠り所」「最終的な拠り所」そんな意味でしょうか。

 お念仏の働きとは、人間にとっての「究極的、最終的拠り所」なんです。
 泣きながらでも、真の拠り所を持っている人は不思議な強さを頂いておられる。
 拠り所を持つことの大切さを思います。

 「淋しさと 苦悩の 底に 法 光る」
 苦しみの中に、悲しさ、淋しさの中に、仏様に抱かれている安堵感を頂いて、生きていく力を恵まれていくのがお念仏生活でしょう。
 
 「人生は、ままならない。人生は忍である。まるで刀が突き尽きられて、ただ息を殺して耐えるしかない人生の苦しみ」
 それが人生なのでしょうか?
 お釈迦様は「人生は苦なり」と説かれました。
 「人生は自分の思い通りにはいかない。」「人生は ままならぬ」ということでしょう。
 
 浅原 才一さんの歌に次のような歌があります。
 (少し読み難いですが、原文と意味を対象してみます。)

 「うき世はままならの ままならなら うきよじゃないよ それで ざんぎで たつうきよ  あさまし あさまし あさましや
  これが くわんぎに なるうきよ なむあみだぶつ なむあみだぶつ」

→「浮世は ままならぬ ままになるなら 浮世じゃないよ 
それで慚愧(ざんぎ)で 立つ浮世 浅まし 浅まし 浅ましや これが歓喜に なる浮世  南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」

 親鸞聖人は「無慚 無愧」(むざん むぎ)と言われ、「私は自分の罪を懺悔(ざんげ)することも出来ない者と懺悔(ざんげ)しておられます。

 浅原才一さんは「「浮世は ままならぬ ままになるなら 浮世じゃないよ  それで慚愧(ざんぎ)で 立つ浮世 浅まし 浅まし 浅ましや これが歓喜に なる浮世」と歌っています。

 「浅まし 浅まし 浅ましや これが歓喜に なる浮世」とあります。

 親鸞聖人は「無慚 無愧」(むざん むぎ)の この身にて まことの心はなけれども」といって、つづいて 「弥陀廻向(みだえこう)の御名なれば 功徳(くどく)は十方に みちたもう」と言われています。
 親鸞聖人は「私は自分の罪を懺悔(ざんげ)することも出来ない者」と懺悔(ざんげ)している中に、 「弥陀廻向(みだえこう)の御名」つまり、「阿弥陀様から、私に振り向けられた南無阿弥陀仏の御名」を頂いて、苦悩の中に、力強く、立ちあがっておられます。

 ある家に法事に行くと、仏壇の横に、こんな歌が色紙に書いて掛けてありました。

 「誰にだって あるんだよ 人に言えない 苦しみが 
  誰にだって あるんだよ 他人に言えない 悲しみが
  言えば 言うほど 愚痴になる 
  思いなおして 空 見れば 
  月が出てます 照らします 
  我も その中 光り中 
  ああ有難や 南無阿弥陀仏」

 簡単な言葉ですが、とても心に染み入る歌のような気がします。

 浅原才一さん歌で、私のとても心ひかれる歌に次のような歌があります。

 「うきことに おおた人なら わかるぞな うきことに あわざる人なら わからんぞな
 ためいきほど つらいものわ ない こころのやりばない ためき みだに とられて なむあみだぶつ
 なむあみだぶつと 申すばかりよ」
 
 →「憂きことに 会うた人なら 解(わか)るぞ憂きことに 
   会わざる人なら 解(わか)らんぞな 
   ため息ほど つらいものは ない 心のやり場ない ため息 弥陀(みだ)に摂(と)られて 南無阿弥陀仏
   南無阿弥陀仏と 申すばかりよ」
  
 「やり場のない 持っていき場のない ため息」これは辛いですよね。
 この「やり場のない 持っていき場のない ため息」に対して南無阿弥陀仏と呼びかけていて下さるのでしょう。
 
 大分前の話ですが、討論会が催され、色々な宗教の代表者が話されました。
 浄土真宗の話をされた先生に、聴衆から質問がありました。

 「先生はどうしても浄土真宗を聞けと仰っしゃるのですか?」という質問でした。
 先生が答えられました。
 「いやいや、私はどうしても真宗を聞きなさい、そんなことを言っているじゃないんですよ。
 私はね、あなたに、悩みの種がないなら、涙の種がないなら、真宗なんか聞かなくともいいんです。
 しかし、悩の種があるなら涙の種があるなら、このお流れを汲みなさいと言ったんです。
 真宗の教を聞け、いいえそうではありません、聞かなくってもいいのですよ。
  貴方にも苦しみがなければ、貴方に若し悩みがなければ聞かなくてもいいのです。」

 と答えられました。

 
 「本願海 その水 流れて浄土真宗」

 阿弥陀如来の胸より流れ出た、流れは、悩みや涙に苦しむ者の汲む水だと言われたのですね。
 涙のからさを味わったことのある人、悩みの苦さを知っている人、そういう人は、この水をお飲みなさい。  
 この真宗の川の流れは、時代を超え、場所を超え、旧いまま新しいと説かれるのですね。
 絶えざる流れです。
 いつでも、どこでも、誰れでもが飲むことが出来る水と説かれるのですね。
 これが真宗の流れ。 時代によって変わらないのが、仏様の教えです。

 いつも新しい、時代によって変わらぬ、場所によって変わることのない流れが、常に新しく流れているのですね。
 私たちの涙を洗い流し、悩みの苦さを消す美しい清水ならば、阿弥陀如来の胸から流れ出た真宗の教えは、今に生き生きと呼吸していることになるのですね。
 
 悩みや苦しみが自分自身の問題となった時に、「仏様の胸から流れ続ける水」が、私の苦悩から救ってくれる「法の水」なのでしょう。

 「淋しさと 苦悩の底に 法 光る」

 浅原才一さんには、こんな歌もあります。

 「さいちが ごくらく どこにある 心にみちて なむあみだぶつ なむあみだぶつが わしのごくらく」
 
 →「才一が 極楽 どこにある 心に満ちて 身に満ちて 
南無阿弥陀仏が 私しの極楽」

 「きいた と 思ふじゃない きいた じゃ なをて こころにあたる なむあみだぶつ」

→「聞いた と 思うのでは無い 聞いた では 無くって 心に当たる 南無阿弥陀仏」

 こんな歌に出会うと、自分の浅い知識というものが恥ずかしくなってきます。
 現代に生きる私達は情報の洪水の中に居ます。
 しかし、「一句」というものを本当に味わっているでしょうか?
 「あれも知っている。これも知っている。」と言いながらも、真実に知っていることが一つもないのかも知れません。
 「万能足って 一心足らず」ということもあります。
 「色々なことを知っているけれど、結局は何一つ真に知らない。」ということでしょう。
 これでは淋しい限りですよね。

 「一句 万劫の渇を 治す」

 一つ言葉でも、 しみじみ、噛みしめ味わうということが大切なのでしょう。
 いたずらに多くを知ることが大事なのではなくて、一句でも心底から味わい切れば、その方がよっぽど大事なことなのでしょう。
 言葉一つを簡単に、「それはこういう意味ですね。」と言うのではなくて、黙って噛みしめることが必要なのでしょうか。

 この浅原才一さんの歌に、「心に当たる」という言葉がありますね。
 とても味わいがあり、深い言葉だと思います。
 それはまさしく「仏様に呼ばれている我が身」ということに目覚めさせて頂いたということではないでしょうか?


 親鸞聖人の言葉に「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、親鸞一人がためなりけり」という言葉が「歎異抄」の中にあります。
 「仏様に呼ばれているのは私だった。私は仏様に呼ばれていた。」
「これに依れこれに頼れとみ仏は、わがため み名を授けましけり。」という歌も「み仏は」が主語ですよね。

 「義山法語」というものがございます。足利義山師の法語などを集めたものです。

 その中の「長男日野義淵の妻千里子の所望に応じてかきあたへたる文」に次のように書かれています。

 当時の文章なので、少し読み難いですが紹介させて頂きます。

 「朝夕仏前に詣(もう)でて、礼拝(らいはい)し称名(しょうみょう)はすれども、ただうはのそらの風情(ふぜい)にて、 心底(しんてい)より嬉しく思ふことはあまりなく、いろいろのことばかり思ひつづけてあれば、とてもこの有様(ありさま)にては 御助け(おたすけ)にはあはれまじと気遣ふ(きづかう)はいらざる心配なり。
 心のちりみだれて猿(さる)の騒がしきごとくなるは、散乱増(さんらんぞう)とて此世界(このせかい)の凡夫(ぼんぶ)のうまれつきの 煩悩(ぼんのう)なり。
 そのものを助けんとて、五劫(ごこう)の思惟(しゆい)もなしたまひしうへにて呼掛(よびかけ)たまふ本願(ほんがん)ゆえ、
 散乱放逸(さんらんほういつ)もすてられず
 と、御和讃(ごわさん)にも仰せ(おおせ)られてあれば、このちりみだれたるままを正客(しょうきゃく)として御助け(おたすけ)くださるることと 思ふべし。
 又、大病などのとき、死ぬかも知れんと思へば、なんとなく心細くて、どふかしていきてをりたいと思ふも、皆煩悩(みなぼんのう)のわざなれば、  左様(さよう)なる愚痴のものを助けたまはんために、難行苦行したまひしが阿弥陀如来ぞと、高祖大師の御教化にも見えたり。
 されば、わが手もとには、いかにあさましきことかずかずありとも、皆引受け(みなひきうけ)て御助けとこころうべきなり。
 信心といふは別のことにあらず、右の通りの広大なる御慈悲(おじひ)のほどを聞いてみれば、気遣ふ(きづかう)ことはない、 私ごときものも御助け(おたすけ)にあはるることとはありがたやと引受(ひきう)くるばかりなり、一生涯、思ひだすたびごとに、 其時々(そのときどき)の心のままにて参らせてくださることはありがたやと思ひて念仏もうすより外なし。
 こればかりにて、何時(なんどき)病気にかかりて、御慈悲(おじひ)は思ひうかべも得ずして命終わるとも、まちがひなく往生(おうじょう)させたまふを、 平生業成(へいぜいごうじょう)とは仰せ(おおせ)られたるなり。」     
 
 
ご清聴頂きまして、有り難うございました。 称名

☆☆最後に法語を紹介させて頂きます☆☆      
                             
 
  
                      
         
 
*悩みをなくそうとする人は多いが    
「悩んでいけるようになりました」    
という人に心ひかれるものがある。   
 
*悩んでいる人は、その解決方法を   
探すと同時に、一方では自分を   
理解してくれる者を  
求めているようである。  
 
*解決の道はなくとも、     
「つらいことですね」   
 
と言ってくれる人があると    
落ち着くこともある。   
 
     


ようこそ、お聴聞下さいました。有難うございました。合掌

最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え」の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。

「今ここでの救い」

 念仏ねんぶつおしえに あうものは、いのちを えて はじめて すくいに あずかるのではない。 いま くるしんでいるこの わたくしに、 阿弥陀如来あみだにょらいねがいは、 はたらきかけられている。
親鸞聖人しんらんしょうにんおおせになる。
 信心しんじん さだ まるとき 往生おうじょうまた さだまるなり
 信心しんじん いただくそのときに、たしかな すくい にあずかる。 如来にょらいは、 なやくるしんでいる わたくしを、 そのまま きとめて、 けっして てる ことがない。 本願ほんがんの はたらきに あう そのときに、 煩悩ぼんのうを かかえた わたくしが、 かならほとけになる さだまる。 くるしみ なや人生じんせいも、 如来にょらい慈悲じひあうとき、 もはや、 苦悩くのう のままではない。 阿弥陀如来あみだにょらいいだかれて 人生じんせいあゆみ、 さとりの 世界せかいみちびかれて いくことになる。 まさに いま、 ここに いたり とどいている すくい、 これが 浄土真宗じょうどしんしゅうすくいである。






トップページへ   朝事の案内   書庫を見る