2019年11月 第97話

朝事*住職の法話

わかる分からん」
     
 坂村真民さんの詩に次のような詩があります。

『死のうと思う日はないが、生きてゆく力がなくなることがある。
そんな時お寺を訪ね、私ひとり、仏陀の前に座ってくる。
力わき明日を思う心が出てくるまで座ってくる』
 この詩に、お寺とは、本来こういうものではないかと教えられる気がします。
 ええ恰好して参る必要は全くなくて、あるがままの姿で参ればいい。それが、お寺というところでしょう。
 それが本堂の持つ独特の雰囲気と宗教環境というものではないかと思うのですね。
 何の気構えも要らないところです。それが本堂の良さではないでしょうか?
 それを、ついつい「いい恰好していなければ参れない。」というふうに考えがちなのかも知れませんが、決してそんなところでははないと思います。
 辛い時、苦しいときこそ、どうぞお寺にお参り下さい。
 「逆境を生き抜く人は尊い。だが順境に酔わない人もまた有難い」という言葉を聞いたことがあります。
 順境にあって恵まれている幸を感謝することは中々難しい事ですよね。
 幸せで苦しみを知らない世界を「天人」の境界と言うそうですね。
 「有頂天」という言葉もあります。足が地に着いていない状態なのでしょうか?
 順境も逆境も全てが、仏法を聴聞するご縁であります。順境の中に在って自己を見失うことなく生きている人には頭が下がる思いがします。
 順境、逆境に関係なく、あるがままの姿で、どうぞお参り下さい。

 
「惠蛄(けいこ)春秋を知らず,伊虫(いちゅう)あに朱陽(しゅよう)の節を知らんや」という言葉があります。
これは,『荘子』の中にある譬えだそうです。
「セミは春や秋を知らない。この虫がどうして夏を知っていることがあるだろうか。夏も知らないのである。」という意味です。
このご文は、親鸞聖人が『教行信証』に曇鸞大師の『浄土論註』を引用されたものです。
そこでは『観無量寿経』の十念念仏(十声の念仏)について諭される譬えとして引用されています。
「『観無量寿経』に十声(とこえ)の念仏と説かれているのは、 これによって浄土に往生することが決定することを明かしているのであります。
必ずしもその念仏の数を知らなければならないということではありません。
たとえば、 蝉は春や秋を知らない。 だから、 この虫は夏ということも知らない。というようなものであります。
ただ春夏秋冬を知っている人間が、 蝉が鳴くのは夏だというだけであります。
たとえば十声念仏することによって、往生が決定するということも、仏が仰せになるだけであります。
衆生においては、 ただ念仏し続けて、 心が別のことに移らなければ、 それでよいのであります。
どうして念仏の数を知る必要があろうか。」というものです。

「夏になって初めて地上に出てきて,秋までに死んでしまうセミは、春や秋、冬のことを知らないし,話を聞いても理解できない。」
私達も,これと同じように、自分の経験や知識,理解力を越えたことは理解できません。
反対に、私達は、自分の経験を越えたことを否定してしまいがちです。
私達は、自分の目で見えるものや、体験したことは理解出来ますが、そうでないものは受け入れることが難しいのですよね。
そういう、迷いの世界にいながら、迷いの世界にいることも気づかずに、日々生きる私たちを見て、 阿弥陀如来は、「迷いの世界から必ず救う」と仰っています。
その呼び声こそが、「南無阿弥陀仏」なんです。

 人間は、四季を知っている。だから、今は春でもなければ秋でもなく、夏である、と分かるわけですよね。
 春や秋を知らないセミは、夏を本当に夏と知っているとは言えないわけですよね。
 ここに、「境界の違い」というものが、大変大きいなあと思わざるを得ません。
 セミと人間は「境界」が違いますよね。仏様と私たちも境界というものが違います。
 私たちの智恵では分からないことを「不思議」と言います。

 近所に居られた有難いお婆さんが言われていました。
 「私の父が『仏様と凡夫とは52段の違いがあるからなあ。』と言っていました。」と。

 仏様と凡夫とは五十二段の違いがあるそうです。
1段違えば人間と虫ほど違う悟りが、低いものから高いものまで、全部で52段あるそうです。
これを「悟りの52位」と言うそうです。
それぞれの悟りはどんな名前か下記に示して見ます。
 1段目から10段目を「十信」
11段目から20段目を「十住」
21段目から30段目を「十行」
31段目から40段目を「十回向」
41段目から50段目を「十地」
と言います。

51段目は、ほとんど仏の覚りと等しいということで、「等覚」と言います。
一番上の、下から数えて52段目の覚りが「仏覚(ぶっかく)」と言われ、仏の覚りです。
これ以上、上が無い、「無上覚(むじょうかく)」と言われたり、妙なる覚り、「妙覚(みょうがく)」とか、
「阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)」とも言われ、仏の悟りには色々な名前があるそうです。
 
 凡夫が仏様の教えを自分の力だけで理解しよう、掴もうとする姿勢が、中々通用しないということが、理解できるような気がします。
 そうなると、仏様の世界・境界というものが凡夫には分からないとすれば、どうすればいいのでしょう?
「分かった方」つまり「悟った方」の言われることを聞かなければならないのではないでしょうか。
「仏語に虚妄(こもう)なし」「随順仏語(ずいじゅんふつご)」「順彼仏願(じゅんぴぶつがん)」と言われます。
 「己を空しくして聞く」とも言います。「謙敬聞奉行(けんきょうもんぶぎょう)」と言って、
「謙虚に、頭下げて敬いの心をもって聞かなければならない。」と言われることも、「仏様の世界は、ただ仰ぐしかない。」という世界だからでしょう。
 ある有難い御門徒の年賀状に「法界の風 涼し ただ仰ぐのみ ただ伏すのみ」と書かれていました。
 この御門徒は亡くなられる前に、子供に当てて、『どうぞあなた達も、お浄土に参ってきて下さい。』という手紙を、易しい言葉で、 家族に残されたお婆さんでした。

 ある先生が言われました。
「仏法をよく分かってから信ずると思うだろう。でも、そうではないんやで。分からないから信じられるんやで。」と。
 この言葉は、不思議な気がして、とても印象に残っている言葉です。
 それは、「分からなければ信じられないのではない。分からなくても信じられる。」という意味もあるのではないかと思うのです。
 勿論、仏法を聞いて、勉強して、「分かる。」という努力を馬鹿にするのではありません。
勉強は必要なことだと思います。
 しかし、「分かった。」ということは「知解分別(ちげふんべつ)」と言って、頭で分かっただけであると言われています。
 頭で理解して、分かったと思い安心していたら、大変な「落とし穴」に落ちていることになるわけでしょうね。
 これは私自身が、御法話の中で、注意されたことでもあります。
 やはり、自分以外の人に注意してもらうことがなければ、人間は、いつでも横道にそれていく性質を持っているようですね。


 ある寺の御門徒に、百歳以上の長生きをされた御門徒さんがおられたそうです。
 その方は、ある年齢からほとんど耳が聞こえなくなられたそうです。
 それでも、その方はお寺に参って仏法を聴聞され続けたそうです。
 常識的に考えたら、理解し難い面も感じられるかも知れませんが、そこが宗教の深いところなのかも知れません。
 お寺の本堂という宗教的な空間に身を置きたかったのかも知れません。
 又は、昔からの同行の友達に会いたいのかも知れません。
 私の寺の御門徒にも、もうお亡くなりになられた方ですが、年取られ、耳が遠くなられて、会話は何とか出来るけれど、 御講師さんの話は、ほとんど聞こえない人がいました。
 その人は、いつも仏法を聴聞しに寺参りされていました。
 私は当時は若くて、今思えば、とても失礼な質問だったような気もしますが、不思議な気がしたので、 その人に「あなたは耳が聞こえないのでしょう。御講師さんの話を聞いて分かるのですか?」と聞いたことがあります。
 その方は、言われました。
「私は御講師さんの話される表情を見ているのです。有難いことを言われた時は御講師の表情でわかります。」と。
 こういう言葉を聞きますと、私は耳は聞こえるけれど、一体何を聞いているのだろう?
 この人の方が御講師の話をよく聞いているのではないか?
 そんな気もしてきます。
 「仏法を聴聞する。」と言いますが、「聞く」ということは、一体どういうことが真実に聞くということなのでしょうか?

  
僧肇(そうじょう)という方がおられました。
([374年~414年]中国東晋の僧。長安の人。鳩摩羅什(くまらじゅう)の門下で、仏典漢訳を助け、理解第一と称された。)  
彼の言葉に「罔知所以然而能然者不思議」
「然る所以を知らずして 然らしむるは不思議なり」(僧肇)という言葉があります。

「どういう理由でそうなるのか分からないけれど、そうなる。」というような意味だそうです。 
 「不思議」という言葉を説明したのですね。 

『蟪蛄(けいこ)春秋(しゅんじゅう)を識(し)らず、伊虫(いちゅう)あに朱陽(しゅよう)の節(せつ)を知(し)らんや』
そのお悟りの眼がなかったならば、セミが自分の生きている季節を夏だということも知らずに過ごしているように、
私達も、今生きている人間の世界を、娑婆(耐えなければ生きていけない世界→忍土)とも知らずに命終わってしまうのではないでしょうか?
そんな私に「目指すべき世界は浄土なのだよ!」と示して下さるのが仏法の教えです。
「セミは夏しか生きれない。人間もこのセミと同じように、短い人生を、日々『お金・お金・お金』と思って生きている。それは勿体ないことではないのか?」
そんな仏様からの忠告のような気がして、大変有難い気がします。
傅大士ふだいしという方がおられました。

「あさなあさな、仏とともにおき、ゆうなゆうな、仏をいだきてふす。」
この言葉は、『安心決定鈔』の中に引かれる中国の傅大士(ふだいし)[497年-569年]の言葉です。
傅大士は、大乗の教えに造詣が深くまた仏教以外の書物にも詳しい、尊い人であったといいます。
『朝、起きるときには仏とともに起き、夕べ、眠るときには仏をいだいて伏す』という意味です。
寺院の経蔵の正面に傅大士の像が安置されているのを見かけたことはありませんか?
 なぜ経蔵に彼の像を置くのでしょうか。
それは、傅大士が「転輪の蔵(てんりんぞう)」の発案者であることと関係しています。
彼は、たとえ文字の読めない人であっても、誰もが仏教に出会うことのできる方法はないのだろうかと考えました。
転輪の蔵とは、経蔵の中心に回転させることができる八面の本棚を設け、それを回転させることで、人は動くことなく仏典を取り出すことができます。
そして、棚から経典を取り出して読むことができなくても、腕をのばして転輪の蔵を横に一回転させれば、経典を読んだことと同じ功徳が得られるというのです。
傅大士は、そのような形で、「仏教を衆生にとってより身近かなもの」としたのです。
 「仏とともにおき」「仏をいだきてふす」という生き方は、「衆生が仏と一体となって生きること。」を意味しています。
「悩み苦しみの中にあって、そこから中々抜け出せない衆生が、仏と一体となる。」とはどういうことでしょうか?
 衆生は、苦悩を苦悩と自覚できないで、迷いの世界に生きている。
 そういう衆生を、いつもあわれみ念じている「仏」がいると、『安心決定鈔』では説かれています。
 だから、仏に念じられている衆生に、「あさなあさな、仏とともにおき、ゆうなゆうな、仏をいだきてふす」なんだよと教えられているのでしょうね。
 
 この傅大士は、はじめは極めて平凡な農夫だったのだそうですね。
 妻子もいて、閑な時には、川に行って魚を取って、料理して食べたりしていたそうです。
 ある日、いつものように魚を取ろうと川に入って歩いていました。
 その日に限って魚が一匹も見つかりませんでした。
 夕方まで魚を探していました。その時に、突然、誰かに突き当たりました。
 驚いて顔を上げて見ました。
 そこに白衣白髪の老人が立っていました。
 傅大士は「あなたは誰か?」と聞きました。
 老人は「ああなつかしい。とうとうめぐり逢うことができました。あなたは私を忘れたのですか。」と言われました。
 傅大士は「私はあなたのような人には逢ったことがない。一体あなたは誰なのか?」と聞きました。
 老人は「そういうのも無理もないが、実はあなたと自分は前の世に、共に仏に随って悟りを求め、救世利民【ぐせりみん】の為に誓いあった仲であります。
 あなたは、そんなつまらない日暮らしをしている人間ではない。早く目覚めてくれよ。」と言うのでした。
 傅大士は「自分はそんな立派な人間ではない。こうして魚を取っていればいいのです。」と言いました。
 老人は「もし私の言う事が嘘だと思うのなら、足もとに映った自分の影を見よ。」と足もとを指しました。
 傅大士が足もとを見ると、そこには金色の光を放つ、尊い菩薩【ぼさつ】の姿が、水の底深く輝いていたのです。
 傅大士は、水の中に写った自分の影が、金色の光を放つ、尊い菩薩の姿であることに驚きました。
 そして、翻然と自覚したのです。
 その後、傅大士は、この老人の教えにしたがって仏道にいそしみ、先のような立派な業績を残される人になられたのです。
 人間は「自分なんかつまらない。」と自分を卑下するほど、情けない事はありませんよね。 
 傅大士と白衣白髪の老人との出会いのエピソードは色々な深い意味があるのでしょうが、私は理屈抜きに好きな話なんですね。
 私達が仏法を聴聞することの背景にも、この逸話と同じようなことが、目に見えない世界で起こっているのではないでしょうか?
 『お金・お金・お金・・と金ばかりに執着している生活でいいのか?そういう生き方していては、せっかくの尊い人生が勿体ないではないか!』
 白衣白髪の老人に、私は、そう問いかけられているような気もします。
 人間は自分が執着し、とらわれているものに、逆に苦しまされるのだそうですね。
執着に泣かされる情けない凡夫ですよね。
 金に執着して金の事ばかり思っていたら、その人は金に縛られている生活になります。
 お金が沢山ある人でも、「このお金が無くなったらどうしよう。この金を維持するためにはどうしたらいいのだろう?」 と心配してとらわれていたら、その人にも苦しみが存在します。
 お金が有っても、無くても、共に執着から来る苦しみを味わい、尊い人生が失われていくということなのでしょう。 

 「あさなあさな、仏とともにおき、ゆうなゆうな、仏をいだきてふす。」                 
 この傅大士の言葉を深く味わいながら、仏様と共なる日暮らしをさせて頂きたいものでございます。
 
ご清聴頂きまして、有り難うございました。 称名

☆☆最後に法語を紹介させて頂きます☆☆      
                             
 
 「坂村 真民」詩集より  
                      
         
 
*花は一瞬にして咲かない。    
大木も一瞬にして大きくはならない。    
一日一夜の積み重ねの上にその栄光を示すのである   
*生も一度きり、死も一度きり、   
一度きりの人生だから、   
一年草のように、独自の花を咲かせよう  
*雑魚は雑魚なりに、大海を泳ぎ。  
 
我は我なりに、大地を歩く     
   
坂村真民   
     


ようこそ、お聴聞下さいました。有難うございました。合掌

最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え」の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。

「今ここでの救い」

 念仏ねんぶつおしえに あうものは、いのちを えて はじめて すくいに あずかるのではない。 いま くるしんでいるこの わたくしに、 阿弥陀如来あみだにょらいねがいは、 はたらきかけられている。
親鸞聖人しんらんしょうにんおおせになる。
 信心しんじん さだ まるとき 往生おうじょうまた さだまるなり
 信心しんじん いただくそのときに、たしかな すくい にあずかる。 如来にょらいは、 なやくるしんでいる わたくしを、 そのまま きとめて、 けっして てる ことがない。 本願ほんがんの はたらきに あう そのときに、 煩悩ぼんのうを かかえた わたくしが、 かならほとけになる さだまる。 くるしみ なや人生じんせいも、 如来にょらい慈悲じひあうとき、 もはや、 苦悩くのう のままではない。 阿弥陀如来あみだにょらいいだかれて 人生じんせいあゆみ、 さとりの 世界せかいみちびかれて いくことになる。 まさに いま、 ここに いたり とどいている すくい、 これが 浄土真宗じょうどしんしゅうすくいである。






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