2019年9月 第95話

朝事*住職の法話

本願ほんがんの船には乗れど」
     
 竹下昭寿さんは、昭和34年癌のためにお亡くなりになられました。30歳の若さで婚約者もおられたようです。
 主治医の高原憲氏は念仏者で、竹下昭寿さんが亡くなられるまで、色々な面から支え、導かれた。
 高原憲氏が竹下昭寿さんに贈った歌に
「何もかも我一人のためなりき 今日一日のいのちたふとし」
「本願の船には乗れど煩悩の船のともづなはなしかねつも」
という歌がある。
「我一人のためなりき」という言葉は、親鸞聖人の「歎異抄」の 「弥陀五劫思惟の願をよくよく案ずれ場、ひとえに親鸞一人がためなりき」に由来している。
 阿弥陀如来の誓願は全ての生きとし生けるものを救うために建てられた誓願であるけれど、親鸞聖人は「親鸞一人のため」と受け止められた。
 そう受け止めることが大事であると教えられた。
 私に向けて、「救いたい」という阿弥陀如来の誓願は働いている。
 その誓願を受けている私は、姿では仏様を拝みながら、心は地獄や餓鬼道をさ迷い続けている。
 しかし、このようなお粗末な私をほっておけない、と阿弥陀如来の誓願は働いていると聞かせて頂いている。
 
 親鸞聖人の語録を集めた者が、「歎異抄」という本だが、この「歎異抄」という言葉は「異なるを嘆く」という意味がある。
 「異なっている者」を、「そんなことでは駄目じゃないか。お前は、まだそんなところをうろうろしているのか。」と責め裁いていく、という 態度ではなく、「その異なっている者」を抱きしめて、「嘆いている」。
 もちろん叱咤激励するということには、それはそれなりの事情があります。叱ることも大事なことでしょう。
 しかし、その根底に、その人を安心させるバックボーンみたいな安心感が必要ではないでしょうか。
 他人に叱られて、言われっぱなしでは、鬱々とした感情だけが残って、「自分は駄目だ。」 というやりきれない気持ちだけが残って、どこか浮かばれない。心の深呼吸が出来なくなってしまうような気がします。
 「どうして そんなことしたの お母さんは悲しいよ。そんなことしてくれて お母さんは嬉しいよ。」
 人間は叱られながらもどこか肯定感のあるものが根底に欲しいのではないでしょうか。
  根底に、「君は君でいいんだよ。君は君の花を咲かせればいいんだよ。」そんな安心感が欲しいですね。
 仏教では、私たちの命は根底では一つである。同じ命を生きている、というものが根底にあるようです。
  そういう安心感がなければ、まるで自分は、この世の中に用がない、死んだ方がましな気持ちになってしまうのではないでしょうか。
 生きていく意味がないような、つまらない無意味な存在なら、自然とそういう気分に感じたりしますよね。
 世の中で、皆に迷惑かけて、どうしようもない人間にも、親がいるでしょう。

 世間の人間は「あんな奴なんか居なくなればいいんだ。その方が世の中は平和でいい。」と思っても、親はどうでしょうか?
 たとえ世間が見捨てても、親は見捨てることが出来ないのではないでしょうか。それが親というものではないでしょうか。
 「歎異抄」とは、「異なる」を「嘆く」という意味があるのだそうです。
 「間違った者」を、抱きしめて泣いている母親。
 そんな心持で書かれたのが「歎異抄」というものなのでしょうか。
 竹下昭寿さんは、亡くなる前の闘病生活で、教育者のお兄さんの竹下哲氏に「会社に出勤する前に『歎異抄』を読んでほしい。」と願い、お兄さんは、 梅原真隆師の「歎異抄」の現代語訳を読んであげられたそうです。
 まもなく亡くなるかも知れない弟の病床で「歎異抄」を拝読することは、胸のつまることだったようですが、弟の竹下昭寿さんは喜ばれたそうです。
 この竹下家は仏教信心の篤い家庭だったみたいです。仏縁が深い家庭ということですね。
 小さい頃から家庭で何気なく聴いていた仏法の話、そういうものが、知らないうちに、人間の奥底にしみこんで、 その人が窮地に陥った時に、力となって、心の安定を与えたりすることを思う。
 だから、家庭内に仏縁があるということは、とても大事なことのように思える。
 古今和歌集に『つひに行く道とはかねて聞きしかど昨日今日とは思はざりしを』という歌があります。
 『(誰しもが)最後に通る道とは以前から聞いていましたが、(まさか自分にとってのそれが)昨日今日(に差し迫ったもの)だとは思いもしませんでしたよ。』 という現代語訳(口語訳)になるそうです。
 
 私の寺にも長年 お説教に来られた御講師さんが、近年お亡くなりになられました。
 息子さんが、「亡き父親は、亡くなる前に、『ついにこの時が私にも来たか。』と言いました。」と言われました。
 何とも言えない厳しい厳粛な響きを感じる話でした。
 私を取り巻く全ての出来事は、この私への「仏法の聴聞を、早くしなさいよ。」というご催促なんだそうですね。
 無駄にしたくないものです。
 その人だけの話として済ませられないことではないか?私達一人一人の姿でもあると、彼は教えているのではないだろうか?
 同じことが私たちにも起ころうとしているのだ。
 竹下昭寿さんの遺書いしょが亡くなられた後、『死の宣告を受けて』という題で、 出版されました。
 彼の心境が日誌の形式で丁寧に書かれています。主治医の高原憲師の言葉、お兄さんの竹下哲氏の日誌も紹介されている。
 主治医の高原憲師の言葉に次のようにある。抜粋して紹介させて頂きます。

 「・・・・・一日一日と死と直面している自分であるとは誰れしも考えないし、又春秋に富める三十の齢では尚更思いもよらぬことである。
 ・・・不治の状態であることを宣告した。あと幾月かと数えるよりも今日一日限りと心得て、今日一日を頂いて生きて行くべきことを語った。
 何もかも我一人のためなりき 今日一日のいのちたふとし
 これは昭寿君に贈った一首である。・・・・人ならぬ大きな力に抱かれた君の姿に、私はただお念仏申すのみであった。
 ・・・ただ徒に人生航海の日の長いことが幸福ではない。喜びも悲しみも乗り越えて、一路お浄土を目ざして誓願の大船に乗託して名残おしくも 雄々しくも船出された君こそ人生の最大勝利者である。」【高原憲師の言葉】
 竹下昭寿さんの日誌に次のように書かれています。抜粋して紹介させて頂きます。
 

 三月二十七日
 「何もかも我一人のためなりき 今日一日のいのちたふとし」
  ほんとに私にぴったりの歌だ。「我一人のため」 ・・・・
 ほんとにこのままで お浄土にうまれさせてもらえると思えば、浄土真宗の有難さがつくづくしみとおってくる。・・・・
 大慈大悲の中心にこうしておかせて頂いて勿体ないこの私に、身にあまる大慈悲を注ぎ包んで下さっているとは。
 「摂取不捨せっしゅふしゃ利益りやくに あづけしめたまふ。」
私には勿体ないのだけれど、このままでいいとおっしゃるのだ。
 だからこそ私は救われていくのだ。如来の本願のかたじけなさ。ほんとに「我一人のためなりき」です。

 三月二十九日午前
 「・・・これを機にお念仏の世界にも縁がありますように。なんとい おうと、結局ほんとうの幸福は お念仏する世界をめざした人生だと私は思います。
  ・・・・・あなたのこれからの人生。いろいろ苦しいこともおありでしょう。
  人生は苦なりとお釈迦まは おっしゃっているのですから。
  でも苦しみをとおして、また喜びをとおしてしみじみと落ち着ける世界が恵まれているのですからね。
  大丈夫ですよ。元気に、全力を挙げてこれからの人生に立ち向かっていって下さい。ほんとうのものを見つめながら。」

 四月九日朝
  白道を歩いていく
  お母さんや兄ちゃんたちの
  やるせなき愛情を総身に浴びて
  それでもひとり白道を歩いていく
  いつかその道がつきたとき
  そこには お浄土が開けている
  多くの仏さまたちが待っていて下さる
  おお御苦労だったと如来さまが
  抱きとって下さろう
  もうそのときは仏の一員
  病、衣、食、住の執着のないところ
  無執着の世界 「浄土」
  そこでほんとうに大切なことだけを
  無限にやらせていただけるのだ


  四月十二日午后
 本願の船には乗れど 煩悩の船のともづなはなしかねつも
 昨日高原先生から頂いた歌。まことにもっとも
 でも本願の船に乗せて頂いているという大安心の上での やっさもっさだ。
  大いにじたばたしても 往生おうじょう間違いなし。
如来にょらい願船がんせんのびくともしないことの有難さ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 お兄さんの竹下哲氏の言葉を、抜粋して、紹介させて頂きます。
 もともと私たちの家庭は、深い仏縁にめぐまれていました。
 若い頃から仏縁のあった母は、幼い私たちを背中にせおい、あるいは手を引いて、お寺の法座にかけつけました。
・・・・八木重吉の詩も兄弟で盛んに愛誦したものです。
 この孤独な、薄命な詩人のつぶやきは、何か私たちの心の奥底にしみとおるような響きを持っていました。

 『虫が鳴いている
 いま ないておかなければ
 もう駄目だというふうに鳴いている
 しぜんと
 涙をさそわれる
  
 てんにいます
 おんちちうえさま
 おんちちうえさまととなえまつる
 いずるいきによび
 入りきたるいきによびたてまつる
 われはみなをよぶばかりのものにてあり』

・・・・弟の心身の経過を静かに見守っておられた高原先生は、ついに三月二十五日、病気は胃がんであること、回復の見込みはないこと、 やるせないお母さんの姿をとおして如来の慈悲を仰ぐべきこと、この世は 「よろずのこと、みなもて、そらごと、たわごと、まことあることなき」こと、 「汝一心正念にして直ちに来たれ、我よく汝を護らん」という如来の喚び声【よびごえ】をそのままいただいてお念仏申すべきことを、 こんこんとおさとしになりました。
 まばたきもせず聞いていた弟は、この瞬間からあざやかな転回をとげました。
  顔からは苦悩の色がたちまちに消え去り、如来のお慈悲を 讃嘆さんだんし、 有縁うえんの方々の御恩を感謝して、静かにお念仏を申すようになりました。
 まことにあざやかな転回です。あまりのあざやかさに、私どもはただただ如来の大悲の力強さに打たれ、しみじみとお念仏を申したことでした。

 三月三十一日【火】晴
・・・・「人生の長い短いは問題ではない。方向の決まるのが大切。」
・・・・「ほんとに みんな なつかしい人ばかりじゃもんね。会いたくない人は一人もいない。一筋の白道を行くとたい。」

 四月十七日【金】晴
   母が、手をしっかり握りしめながら、
   「このまんまよ。このまんまよ。もえすぐ楽にさせていただけるのよね。
    お父さんが待っとんなさるよ。」と言ってお念仏する。
  昭寿、母の顔を見つめながら手を組み合わせるような恰好をする。
  そして、かすかに、つぶやくように、「なむあみだぶつ」と唱える。
  しばらくして涙をほろりとこぼす。母がガーゼでていねいに拭きとってやる。
  次第に、呼吸、脈が衰えはじめる。そして喘ぐような、大きな息を数回して、七時二十五分、とうとう最後の息を引取る。
 がんばれと激励することもなく、しっかりしろと力むこともない、静かな往生であった。
  両手離した、あるがままの、安らかな最後であった。
  病室にきれいな花をたくさん飾って、この美しい死を荘厳してやった。

 梅原真隆の「歎異抄の意訳と解説」【同朋舎】より、現代語訳を紹介します。

 歎異抄 第一条

 『すべてのものを救はねばやまぬと お誓いあらせられた、阿弥陀如来の本願の不思議な御はからひに たすけられて、 お浄土へまいらせていただけることであると信じて、念仏もうそうという こころもちが きざしたとき、 そのときもはや光明のうちに おさめ取って捨てたまわぬ 救済きゅうさい利益りやくに あづからしてくださるのである。
 如来の本願は老人であろうが年少【わかいもの】であろうが、善人であろうが悪人であらうが、あらゆる人々を何等わけへだてなく 救うてくださるのである。
 あらゆる人々を ありのままに救うてくださるのであるから、善とか悪とか いふことに眼をかけず、ただ本願の救いを まうけにする信心ひとつが 肝要であることを知らねばならぬ。
 どうして悪人でも本願を信ずるひとつで たすかると いふに、罪業【つみ】のおもい、煩悩【なやみ】のさかんな われらを たすけんが為めに おこしてくだされた本願であらせられるからである。  
 してみれば、本願を信じさえすれば、その他【ほか】の善根を つみかさねる必要はない。
 本願の念仏よりも勝れた善根はないのだから。
 また、わが身の悪をかへりみて これでは救われないかと不安に感じて おそれるにも及ばぬ。
 如来の本願で救われない程の悪はないのだから。
 ただ本願を信じ念仏をまうして救われてゆくだけであると 聖人しょうにんは仰せになりました。』
   【「歎異抄の意訳と解説」梅原真隆 より】

 阿弥陀如来のことを、「実相身じっそうしん」 「為物身いもつしん」と言います。
  曇鸞大師どんらんだいしの説かれていることです。
 念仏者が知るべき阿弥陀仏身の二面性であります。
『往生論註』に、なぜ名号を称え憶念しても煩悩を除くことができず、また志願を満たすことができないかを問うなかで、 この実相身と為物身を知らないこと(二不知)を理由として挙げられています。
曇鸞大師は『論註』の中で、「実相身」は智慧や法性と捉え、「為物身」は物【衆生のこと】、すなわち衆生の為の身であることから、 慈悲や方便の心であると考えられます。
 阿弥陀如来は「真理の仏さま」であるということが「実相身」という意味です。
 真理の仏さまは、「私たちの為の身」でもあります。それを「為物身」と説いています。
ある方が「為物身の心を詠める」として、次のような歌を詠まれています。
 
 「我が為に 取りた 仏の姿こそ 我も なりぬる 姿なりけり」
 
 という歌です。
 
 「阿弥陀仏のことを、ただ向うに、対象的に見て、尊いなあ、ありがたいなあ、と思うのではなく、あの阿弥陀仏の姿は、私も成らせて頂く姿なのですよ。」
 という心を詠まれている歌だそうです。
 
 
ご清聴頂きまして、有り難うございました。 称名

☆☆最後に法語を紹介させて頂きます☆☆      
                             
    
 「坂村 真民」詩集より  
                      
           
 
鈍刀をいくら磨いても    
無駄なことだというが、    
何もそんなことばに   
耳を借す必要はない。    
せっせと磨くのだ。   
刀は光らない  
かもしれないが、  
 
磨く本人が変わってくる。    
つまり刀がすまぬすまぬ   
と言いながら、   
磨く本人を光るものに      
してくれるのだ 
坂村真民   
     


ようこそ、お聴聞下さいました。有難うございました。合掌

最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え」の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。

「今ここでの救い」

 念仏ねんぶつおしえに あうものは、いのちを えて はじめて すくいに あずかるのではない。 いま くるしんでいるこの わたくしに、 阿弥陀如来あみだにょらいねがいは、 はたらきかけられている。
親鸞聖人しんらんしょうにんおおせになる。
 信心しんじん さだ まるとき 往生おうじょうまた さだまるなり
 信心しんじん いただくそのときに、たしかな すくい にあずかる。 如来にょらいは、 なやくるしんでいる わたくしを、 そのまま きとめて、 けっして てる ことがない。 本願ほんがんの はたらきに あう そのときに、 煩悩ぼんのうを かかえた わたくしが、 かならほとけになる さだまる。 くるしみ なや人生じんせいも、 如来にょらい慈悲じひあうとき、 もはや、 苦悩くのう のままではない。 阿弥陀如来あみだにょらいいだかれて 人生じんせいあゆみ、 さとりの 世界せかいみちびかれて いくことになる。 まさに いま、 ここに いたり とどいている すくい、 これが 浄土真宗じょうどしんしゅうすくいである。






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