2019年8月 第94話

朝事*住職の法話

「自我のからの中の私」
     
 「正信偈しょうしんげ」 【親鸞聖人しんらんしょうにん】の中に、次のように説かれています。
光明名号顕因縁こうみょうみょうごうけんいんねん
「ひかりとみ名の因縁いわれ説く」と訳されています。
 仏様が私たちを救われるのは、ひかりと、み名の働きをもって、照らし、育み、恵まれていくことが、他力の働きというものであります。
「ひかり」と言えば、 浄土真宗じょうどしんしゅうの教えでは、 阿弥陀仏あみだぶつという仏様が、 光明無量こうみょうむりょうであると説かれています。

   光明こうみょうとは、阿弥陀如来あみだによらい のさとりの智慧ちえをあらわします。
 このさとりの智慧ちえは、迷いの世界をくまなく照らして、 衆生しゅじょう悪業煩悩あくごうぼんのう をことごとく破ってくださいます。
 寿命無量じゅみょうむりょうが、 過去、現在、未来の三世をつらぬく永遠のいのちをもつ仏さまであり、いつの時代の衆生しゅじょう をもお救いくださる時間的に無限のはたらきをもつ如来にょらい であることをあらわすのに対し、光明無量こうみょうむりょうは、 どこにいる衆生しゅじょうをも必ずお救いくださるという、 空間的に無限のはたらきをもった如来にょらいであることをあらわしています。 ですから、阿弥陀如来あみだによらいは、いつでも、どこでも、誰でもきっと お救いくださる仏さまです。

仏説阿弥陀経ぶっせつあみだきょう」には、 阿弥陀如来あみだによらいについて、

舎利仏しゃりほつよ、そなたはどう思うか。なぜその仏を 阿弥陀あみだもう しあげるのだろうか。
舎利仏しゃりほつよ、 そのほとけ光明こうみょう にはかぎりがなく、すべての 国々くにぐにてら してなにものにもさまたげられることがない。 それで阿弥陀あみだもう しあげるのである。
また、
舎利仏しゃりほつよ、 その仏の寿命じゅみょう とそのくに人々ひとびと寿命じゅみょう もともにかぎりがなく、 じつに はかり知れないほどながい。それで、 阿弥陀あみだもうしあげるのである。』      
         (『浄土三部経』現代語訳二二一頁)
と記されています。
 

 しかし、よく問われる質問に、
阿弥陀仏あみだぶつひかりいのちが、限りない 仏様ほとけさまであると言われるけれど、 どこに、そういう仏様がおられると言うのか?
 もし、阿弥陀仏あみだぶつという 仏様ほとけさまが、本当におられるのなら、 おられることを、実際に、私に分かるように、証明しょうめいして、見せてほしい。」
 という問いかけというものがあります。

 科学的な教育を受けて来た人間とすれば、当然とうぜんと言えば、当然過ぎる問いかけであります。
 私も、そんなことを思ったことが何度あったことでしょうか?
 しかし、そういう私の心の中を見抜いたかのように、ある御講師が言われました。 
 『「阿弥陀様が本当に居られるのなら、私に実際に仏様というものを見せてほしい。見せてくれたら信じれるのだけれどなあ・・・。」 と思っているのかも知れないけれど、もし、阿弥陀様が実際に、ここに現われて下さったらどうなるか?
 仏様の  清浄無我しょうじょうむが光明こうみょうらされ、 自分のみにくい心が らし出されたら、 発狂はっきょうしてしまうぞ。』
 このように言われたことがあります。 

 仏様のみ教えを聞くことを通して、仏様の心というものが、知らされる事と同時に、私自身の心というものが、仏様に照らされて、 私自身に、知らされてくるのではないでしょうか?

 それでは、仏様の心とは、どんな心でしょうか?
 仏様の 善悪賢愚ぜんあくけんぐ差別さべつすることなく、 平等びょうどうにお すくい下さるのが、仏様の心だと聞かせて頂いています。
 「全ての人を平等に救う。」という仏様の心に比べたら、私の心はどんな心でしょうか?
 自分の都合を中心に、善悪、好き嫌い、取捨、等々と、全て自分の都合を元に判断しているのが、私の自我の心ではないでしょうか。
 私は、片時も自分【自我】のことを忘れることの出来ない。
 全てを自分を中心に考え、行う、煩悩に満ち満ちた、迷いの心が私の心であります。
 み教えを聞く中で、仏様と私の心とは、天地の違いがあることに、段々と気付かされていくのではないでしょうか? 

 そこで、「阿弥陀様が本当に居られるのなら、私に実際に仏様というものを見せてほしい。見せてくれたら信じれるのだけれど・・・。」 という心が、如何に、わが身知らずの 傲慢ごうまんな心であるか。
 み教えを聞く中で、自然と感じられてくることであります。

 私たちは、「自分の物差し」というものをしっかり持って、その物差しから、物事を見て判断しています。
 もちろん、この厳しい人生を生きていくのに、自分なりの考えをしっかり持っていることも必要であります。
 自分の身を守るためには必要なことであります。
 しかし、この「自分の物差し」というものを、疑うことが全くない、というところに、色々と問題が起こっているような気がします。
 「自分は正しい、絶対に間違っていない。」という自分への確信を持った者が集まっているのが、この世間というものであります。
 そこに自ずと衝突というものが起こってきている気がします。

私たちは平生、外見では当たり障りのない振る舞いをしています。しかし、心の中では「この人は、良い人、悪い人、好きな人、嫌いな人、・・・」 と周りの人を、自分勝手な物差しで人をはかり、枠にはめています。
 良い人と思っている人に少し気にくわないことをされると、「良い人と思っていたけれど・・・」と思います。
 それでも外見では、当たり障りのない振る舞いをして、笑顔で接しています。
 
 大久保彦左衛門【おおくぼひこざえもん】【1560年~1639年】という方がおられました。
 江戸時代初期の旗本であり、天正4 (1576年) 年 16歳の初陣に戦功をあげ旗本に列せられ,以来徳川家康に仕えて功績があった方です。
 大名になることを固辞し,「天下の御意見番」として家康の諮問にこたえた方だったそうです。
 のち,秀忠,家光に仕え,戦国時代生残りの勇士として旗本のなかに重きをなした方でした。

 ここに「天下の御意見番」という言葉がありますが、文字通り、「御意見番」の役目をされた方なのですね。
 「御意見番」が、「御意見番」として成り立つのは、「御意見を聞く人がおられた。」ということですよね。
 「聞く耳」を持っておられた方がおられたということで、それは素晴らしいことだ思いますし、 「聞く耳を持っている。」という態度に、強く教えられる気がします。

 人間は偉くなると、周囲の人が誰れも意見してくれなくなるということがありますよね。

 今は定年になっておられますが、会社で代表の仕事をされていた男性が、当時、親しい友人に、 「私は今地位ある仕事に就いて仕事している身だが、 傲慢ごうまんなところがあったら遠慮しなくていいから、言ってほしい。」と親友に言われました。
 友達は、親友の問いに答えて、遠慮なく、「あなたには、傲慢なところがある。」と言われたそうです。
 それを聞いて少し自覚されたそうです。
 「自分では自分のことは中々分からないものだ。」ということを、よくよく意識している人の態度だと、その謙虚さに、頭が下がる思いがします。

 ある仏法の先生は、「私も年取り、長老になり、私のことを有難い人だと言って下さる人はいるけれど、意見してくれる人がいなくなった。」と、 しみじみ言われていました。

 蓮如上人は 「自分の前では言わず、陰で、コソコソと、自分の悪口を言う人があれば、腹を立てるのが普通だ。しかし、私はそうは思わない。
私に面と向かって言いにくい批判があれば、陰でもよいから言ってくれ、それが回り回って自分の耳に入ったら反省して直したいから。」
と言われています。
 「批判というのは、その人の前では、面と向かっては中々言いにくい。 まして年齢も重ねて、立場もある人間に対して意見してくれる人はいない。だから私は自分の悪いところにも気づけない。」と思われたのですね。
 
 親鸞聖人しんらんしょうにんは「和讃」に次のように説かれています。
悪性あくしょうさらにやめがたし  
 こころは蛇蝎じゃかつのごとくなり  
 修善しゅぜん
 雑毒ぞうどくなるゆゑに  
 虚仮こけ
 ぎょうとぞなづけたる」
(「正像末和讃しょうぞうまつわさん」)

「悪い本性は中々変わらないのであり、それは、あたかも蛇やさそりのようである。
だからたとえどんなよい行いをしても、煩悩の毒がまじっているので、いつわりの行というものである。」という意味です。
 これが私の本当の姿であると、親鸞さまはご自身の心を徹底的に見つめて、正直に告白し、述べておられます。

 それは、何一つ真実を見通すことの出来ない凡夫を等しく救い取りたいと、常に働いて下さっている阿弥陀様のお姿を鏡として、 私達は、煩悩の毒に冒されて、自己中心の生き方しか出来ない身であるということを常に、仏様の鏡の前に、 懺悔ざんげしながら、仏様の光を、ひたすら仰いで、人生を歩んでいかれたということでしょう。
 そこに本当に安心できる世界を頂かれたのではないでしょうか?

 安心と言えば「本願寺新報」に次のような話が掲載されていました。

 本願寺新報2019年7月20日 の「いのちの栞」【5ページ】のコーナーに次のような話が掲載されていました。
 『精神科医の飯塚浩氏は「本当の安心とは、合理的な思考や力によって得るのではなく、無力な自分を受け入れることである」と述べている。
 安心感あんしんかんは、無駄がなく能率的な思考や地位や名誉、財産によって得るものではなく、 無力、つまり ありのままの自分を受け入れることによって得られるという。
 阿弥陀如来の本願を通して、自分のありのままの姿を知らされ、その自分を受け入れることによって、私たちは自己肯定感、安心感を得ることができ、 それが生きる力となるであろう。』
 【普賢保之 ふげんやすゆき 京都女子大学教授】
 妙に心に残る話であります。

 「『御文』はこれ凡夫往生の鏡なり。『御文』の上に法門あるべき様に思う人あり、大なる誤なり」と蓮如上人は言われています。
 ありのままの自己を映すのが鏡ですね。
 「欲や怒り、腹立ち、憎しみ、ねたみ、そねみの死ぬまで絶えぬ凡夫に、自分の本当の掛値の無い真実の姿を見せ、 正しく導いて下さる教えの鏡が、蓮如上人の『御文章』【御文】である。」という意味です。

 先ほど「自分の物差し」というものを絶対正しいと思って生きている、ということを言いました。
 私たちは、この「自分の物差しが絶対に正しい、これが全てだ。」と、凝り固まっているのでしょうね。

 しかし、それで、かえって自分自身が苦しんでいるのではないでしょうか?
 例えば、「健康が善だ。健康こそが幸せで、病気は不幸だ。」という「物差し」があるために、病気になったら、人生が無意味に感じられてしまうのかも知れません。
 また、「世の中は金だ、金だ、人生は金がなければ駄目だ、金が全てだ。」と思うから、 お金、お金と、金というものに縛られてしまう生活になってしまうのかも知れません。
 ところが、「健康が全てではない。人生は健康もあれば病むこともある。」「お金が全てではない。」と思ったら、 ほっと安心できる世界が開けてくるのではないでしょうか。

 もちろん病気が幸せだと言うことはありません。病気は本人も辛いし、仕事にも影響があるでしょう。
周りの家族も大変な負担がかかり心配もします。
 お金が必要なことは言うまでもありません。
 しかし、そういう強固な「自分の物差し」にとらわれてばかりでは、益々苦しいことになってしまうのではないかと思うのです。
 苦しいときこそ、何かそこに、「自分の物差し」を超えた何かに出会うということが、とても大切なことに思えてくるのです。

正信偈しょうしんげ」の中に、

 「極重悪人唯称仏ごくじゅうあくにんゆいしょうぶつ
 我亦在彼摂取中がやくざいひ せっしゅうちゅう
 煩悩障眼雖不見ぼんのうしょうけんすいふけん
 大悲無倦常照我だいひむけんじようしょうが」  
 「罪の人々み名を呼べ 我も光のうちにあり、 まどいの眼には見えねども 、仏は常に照らします。」【意訳】
と説かれています。   

 「極重悪人唯称仏ごくじゅうあくにんゆいしょうぶつ」とあります。
 『「極重悪人ごくじゅうあくにん」とは、あまりにも厳しい言い方ではないか? そんなに私は悪い者だと言われるのだろうか?』
 そんなふうに思うかも知れません。
しかし、この 「極重悪人ごくじゅうあくにん」とは 『「自分中心」「自我」という思いを離れることが出来ないもの』ということではないでしょうか?
 「罪の人々み名を呼べ 我も光のうちにあり、 まどいの眼には見えねども 、仏は常に照らします。」【意訳】
と説かれています。   
 「罪の人々み名を呼べ」とあります。『「南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」と 称名念仏しょうみょうねんぶつせよ』
 念仏は阿弥陀様の呼び声であります。煩悩の闇に響く如来さまの智慧と慈悲の呼び声であります。
 「我亦在彼摂取中がやくざいひ せっしゅうちゅう」とあります。
 「我も光のうちにあり」という意味であります。

 私は、「摂取光中 弥陀せっしゅこうちゅう みだふところ」という 法語ほうご色紙しきしを持っていました。

 近所に有難いお婆さんが住んでおられました。
 そんな彼女が、ある日、私に、 「摂取光中 弥陀せっしゅこうちゅう みだふところ」という 法語ほうご色紙しきしが欲しいと言われるので、彼女に差し上げました。

 ある日、彼女に会うと、その人は、こう言われました。
 「住職さん、私はね、この 「摂取光中 弥陀せっしゅこうちゅう みだふところ」という言葉の後に「住まい」という言葉をつけ加えたのですよ。」と言われたのでした。
 「摂取光中 弥陀せっしゅこうちゅう みだふところまい」という言葉になりました。
 彼女は、「私は、一人暮らしで、自分の家もなく、借家住まいで、体も少し不自由ではあっても、仏様の光の中に住まわせて頂いている幸せ者です。」と 言われているように感じました。
 「罪の人々み名を呼べ 我も光のうちにあり、 まどいの眼には見えねども 、仏は常に照らします。」
 この「正信偈」の言葉を地で行くような有難いお婆さんでした。
 彼女は若い頃から、 仏法聴聞ぶっぽうちょうもんに全てをかけて生きて来られたような 同行どうぎょうでした。
 浄土真宗の教えを心底喜んで味わっておられる方でした。
 彼女の生きざまが「浄土真宗の教え」の全てを体現している。
 「彼女を見れば浄土真宗が分かる。」そんな人でした。
 浄土真宗の教えを心底喜び味わっておられる方に出会えたことが、私には大きなご縁だったと、この人との出会いに、感謝している次第です。

 お念仏は、仏様の全体が、煩悩を抱えて、迷い続けている私に届けられている姿でした。
 「南無阿弥陀仏」はたった六字ですが、仏様の全体が、凡夫の私に届いている姿なのでした。
 
ご清聴頂きまして、有り難うございました。 称名

☆☆最後に法語を紹介させて頂きます☆☆      
                             
    
 「坂村 真民」詩集より  
                           
     
 
あせるな いそぐな    
ぐらぐらするな    
馬鹿にされようと 笑われようと   
じぶんの道を まっすぐゆこう     
時間をかけて みがいてゆこう  
坂村真民    
  


ようこそ、お聴聞下さいました。有難うございました。合掌

最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え」の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。

「今ここでの救い」

 念仏ねんぶつおしえに あうものは、いのちを えて はじめて すくいに あずかるのではない。 いま くるしんでいるこの わたくしに、 阿弥陀如来あみだにょらいねがいは、 はたらきかけられている。
親鸞聖人しんらんしょうにんおおせになる。
 信心しんじん さだ まるとき 往生おうじょうまた さだまるなり
 信心しんじん いただくそのときに、たしかな すくい にあずかる。 如来にょらいは、 なやくるしんでいる わたくしを、 そのまま きとめて、 けっして てる ことがない。 本願ほんがんの はたらきに あう そのときに、 煩悩ぼんのうを かかえた わたくしが、 かならほとけになる さだまる。 くるしみ なや人生じんせいも、 如来にょらい慈悲じひあうとき、 もはや、 苦悩くのう のままではない。 阿弥陀如来あみだにょらいいだかれて 人生じんせいあゆみ、 さとりの 世界せかいみちびかれて いくことになる。 まさに いま、 ここに いたり とどいている すくい、 これが 浄土真宗じょうどしんしゅうすくいである。






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