2019年7月 第93話

朝事*住職の法話

わたしのようなものを」
     
 法名ほうみょうとは、 釈尊しゃくそんの弟子になって頂くものです。
帰敬式ききょうしきというものを 受式じゅしきして、「釈〇〇」という法名を頂くのです。
 その帰敬式の時に、
 南無帰依仏なむきえぶつ
 南無帰依法なむきえほう
 南無帰依僧なむきえそう
 と称えます。
 これを 三帰依三唱さんきえさんしょうと言います。
 南無帰依仏なむきえぶつとは、仏様に帰依することです。
 南無帰依法なむきえほうとは、仏様のみ教えに帰依することです。
 南無帰依僧なむきえそうとは、仏様の教えをよりどころとする集いに帰依することです。
 私も法名を頂いています。
 南無帰依仏なむきえぶつ
 南無帰依法なむきえほう
 南無帰依僧なむきえそう
 と称えて、 仏弟子ぶつでしにして頂いたわけです。

  ずいぶん前の事でございます。
 法名を絶えず意識して、法名に傷をつけない、法名に恥じない生き方をすることが、法名を頂いた者のあるべき姿でありましょう。
 ただ形式的なものに終わらせていては申し訳ない事です。
 それに、自分が人生の苦悩に あえぐ時に、仏様・仏様のみ教え・仏様の教えを仰ぐ者の集いの三宝というものが 自分自身の真の拠り所になっているのか?
 そういうことが問われている気がします。
 「あなたは仏弟子にはなったけれど、人生の大切な時に、苦悩に あえぐときに、少しも仏様・仏様のみ教えが・仏様の教えを仰ぐ者の集いの三宝が拠り所となっていませんね。」
 そう、 お釈迦様しゃかさまに言われているような気がするのです。
 恥ずかしい事です。
 何のために帰敬式ききょうしきを受けたのか?
 そんなことを 自問自答じもんじとうしている次第です。
 下手をすると、「私は、こんなに今苦悩しているのに、仏様は一体、苦悩する私をほっておいて、どこにいるのか?!」と、仏様に文句を言っていないだろうか?
 そんなことも思われます。
 「日々是好日ひびこれこうじつ」という言葉があります。
 「どんな日も良い日だ。」という意味ですが、これは一体どういうことでしょうか?
 良い日とは思えないことも多いですからね。
 ある先生は、説かれました。
 日々是好日ひびこれこうじつというのは、「どんな日も、 阿弥陀様あみださまを思えない日はない。」という意味である。
 そのように話されていたことを思い出し、改めて、この言葉を味わせて頂いている次第です。

  仏様の救いの働きの事を 摂取不捨せっしゅふしゃと言います。
 ある住職さんが言われていました。
 寺で、子供に、『仏様は 摂取不捨せっしゅふしゃといって、いつでも仏様はあなたに寄り添っていて下さっているのです。』と 法話をされました。
 それに対して子供の感想文の中に、次のようなことを書いてきた子供がいたそうです。
 その子供の感想文とは、『僕のような者にも阿弥陀さまは寄り添っていて下さるのですか?』という内容だったそうです。
 その子供も今は大人になっていて、今も付き合いが続いているのだそうです。
 私も、この子供の感想文の内容には驚かされました。
 仏法聴聞ぶっぽうちょうもんすることに熱心な大人が問うのなら、まだ分かりますが、 子供がこのような問いを起こすなんて、 すごいなあと感じるのです。
 それに何よりも、要点をついているとも思いますし、何より自分自身の問題として聞いていることに驚かされます。
 ただの話として、「へえー、そうなのか。」と聞き流しているのではなくて、「僕にも仏様は寄り添っていて下さるのですか。」と、講師に迫ってきているのですね。
 これは凄いですよ。しかし、こんな問いかけにどう答えることが出来るのでしょうか?

親鸞聖人しんらんしょうにんは 「正信偈しょうしんげ」の中で、次のように
我亦在彼摂取中がやくざいひ せっしゅうちゅう
「われもひかりの うちにあり」と説かれています。
極重悪人唯称仏ごくじゅうあくにんゆいしょうぶつ
我亦在彼摂取中がやくざいひ せっしゅうちゅう
煩悩障眼雖不見ぼんのうしょうけんすいふけん
大悲無倦常照我だいひむけんじようしょうが」  
【「正信偈」親鸞聖人】
「きわめて罪の重い悪人はただ念仏すべきである。わたしもまた阿弥陀仏の光明の中に摂め取られているけれども、 煩悩がわたしの眼をさえぎって、見たてまつることができない。しかしながら、阿弥陀仏の大いなる光明は、 そのようなわたしを嫌がることなく、愛想をつかされることなく、常に照らしていてくださる」
【「正信偈」親鸞聖人】
と述べられました。
 大悲無倦常照我だいひむけんじようしょうが という言葉が、その子供に対する答えとなるのではないでしょうか。
 しかし、  仏法ぶっぽうの言葉というものは、中々難しいものですね。
 この親鸞さまの「正信偈」の言葉を、その子供によくわかるように話さないといけないのでしょうね。
  仏法ぶっぽう如何いか平易へいいな、やさしい、分かり易い言葉で話すことが出来るか?
 そういうことが、現代には、特に 僧侶そうりょに求められているのを忘れてはいけないのでしょう。
 蓮如上人れんにょしょうにんなど、私たちの先輩方も、そのことに力を尽くして下さいました。
 難しい仏法ぶっぽうの言葉を、 せんのものを ひゃくに、 ひゃくのものを じゅうに、よくよく くだいて、 仏法ぶっぽういて下さいました。
 蓮如上人れんにょしょうにん自身は、 仏法ぶっぽうの勉学に励まれ、 仏法ぶっぽうを、わが身の上によくよく学び、それを 消化しょうかされた上で、それをどのような表現で説いたら、一般の民衆に、御門徒に分かってもらえるか?
 そのことに力を尽くして下された 蓮如上人れんにょしょうにんのご恩を忘れてはならないと思います。

親鸞聖人しんらんしょうにんは 「正信偈しょうしんげ」というものを書き残して下さいました。
 最近、「正信偈」について学ぶご縁があり、改めて思いましたのは、 「浄土真宗には正信偈という宝がある。」という事でした。
 しかし、中々言葉が難しいので、ついつい 敬遠けいえんして、やさしい 解説かいせつの本ばかり読んでしまいます。
 もちろん解説の本も素晴らしいものですが、たまには、 原点げんてんにかえって、 御聖教おしょうぎょう、 つまり、「聖典せいてん」に親しむことも忘れたくないものでございます。
 御聖教おしょうぎょう原文げんぶんには原文の持つ深みというものがありますし、いくら勉強しても、無限の深みがあるようです。

 親鸞聖人しんらんしょうにんの 「正信偈しょうしんげ」の中の言葉をどのように味わえるでしょうか?
極重悪人唯称仏ごくじゅうあくにんゆいしょうぶつ
我亦在彼摂取中がやくざいひ せっしゅうちゅう
煩悩障眼雖不見ぼんのうしょうけんすいふけん
大悲無倦常照我だいひむけんじようしょうが」  
【「正信偈」親鸞聖人】
「私のような愚か者を、ようこそ必ず救うと呼んで下さいましたことよ。もったいないことでございます。」
 私は、このように味わわせて頂いた次第です。

  考えてみれば、日々の生活は 煩悩ぼんのうの日暮しでございます。
 浄土真宗の法話の中で煩悩という言葉は、毎回のように出てきますので、煩悩という言葉に慣れてしまっています。
 煩悩ぼんのうという言葉に、慣れてしまっているので、 私自身も、煩悩ということの真の意味を忘れてしまっているのかも知れません。
 「煩悩の日暮しを本当に恥ずかしいと思っているのだろうか?」そんなことも反省されてきます。
  法然上人ほうねんしょうにん逸話いつわを思い出します。
 法然上人ほうねんしょうにんが旅をされていたら、 法然上人ほうねんしょうにんの前に 餓鬼がきが立ちふさがったというのですね。
 人を食べて生きている餓鬼がきでした。
 餓鬼がき法然上人ほうねんしょうにんに言いました。
 「私の姿は恐いだろう。」と。
 すると法然上人ほうねんしょうにんは、静かに答えられました。
 「確かに、お前は恐ろしい姿をしている。しかし、私は、もっと恐ろしいものを、自分の中に持っているのだ。 それは 煩悩ぼんのうというものだ。

お前が私を殺しても、殺せるのは、この世の命だけだ。
 しかし、 世々生々せせしょうしょうの命を殺すものが 煩悩ぼんのうというものだ。
 私は、その 煩悩ぼんのう同居どうきょしているのだ。 お前なんかこわくない。」と 法然上人ほうねんしょうにんは言われたそうです。
 それくらい 煩悩ぼんのうというものは恐ろしいものなのですね。
 だから 「煩悩ぼんのうの日暮し」などと簡単に言えるようなものではないのかも知れません。 
  煩悩ぼんのうという いんまよいという をもたらすのですね。
 だから 煩悩ぼんのうというものが まよいの 原因げんいんなのですから、もっと 煩悩ぼんのうというものに対して、厳しいものを感じなければならないのでしょう。
 決して慣れてはいけない言葉だと思い、反省させられます。

  仏様の「私をけっして見捨てない。必ず救う。」という 本願ほんがんのこころが、 南無阿弥陀仏なもあみだぶつという 名号みょうごうとして、私に届けられています。
 何のために浄土真宗で、「南無阿弥陀仏」という 名号みょうごうが説かれているのか?
名号みょうごう」の「名」という言葉は、「夕方」の「夕」に「口」と書きます。
  黄昏たそがれという言葉がありますが、現代は、夜も 不夜城ふやじょうのように、 やみというものが無くなったですね。
 いつか田舎に行った時に、他のところは街灯がついて灯りがあったのですが、 僅かな一部分に、街灯がないところがありまして、街灯のある道まで何とかして出て行こうと真剣に歩いたことがありました。
夜に道が見えなくて、歩くのが大変だったんです。
 そんな時に、人影が見えると、安心したのを覚えています。
 「名」という字は、夕暮れの「夕」に「口」という字を書きます。
 夕暮れで先が見えない時に、「〇〇さん。」と、私の名前を呼ぶ声が聞こえたら、どんなに嬉しいことでしょうか。
 南無阿弥陀仏とは、そんな暗闇に響く仏様の呼び声だったのですね。
 「声に姿はなけれども、声のまんまが仏なり、仏は声のお六字と姿をかえて我れに来るなり」
【高松和上】
の歌を、しみじみ味わわせて頂きたいものでございます。  
ご清聴頂きまして、有り難うございました。 称名

☆☆最後に法語を紹介させて頂きます☆☆      
                             
    
 「坂村 真民」詩集より  
                           
     
 
光る 光る すべては光る  
光らないものは   
ひとつとしてない    
みずから光らないものは     
他から光を受けて光る  
坂村真民    
  


ようこそ、お聴聞下さいました。有難うございました。合掌

最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え」の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。

「今ここでの救い」

 念仏ねんぶつおしえに あうものは、いのちを えて はじめて すくいに あずかるのではない。 いま くるしんでいるこの わたくしに、 阿弥陀如来あみだにょらいねがいは、 はたらきかけられている。
親鸞聖人しんらんしょうにんおおせになる。
 信心しんじん さだ まるとき 往生おうじょうまた さだまるなり
 信心しんじん いただくそのときに、たしかな すくい にあずかる。 如来にょらいは、 なやくるしんでいる わたくしを、 そのまま きとめて、 けっして てる ことがない。 本願ほんがんの はたらきに あう そのときに、 煩悩ぼんのうを かかえた わたくしが、 かならほとけになる さだまる。 くるしみ なや人生じんせいも、 如来にょらい慈悲じひあうとき、 もはや、 苦悩くのう のままではない。 阿弥陀如来あみだにょらいいだかれて 人生じんせいあゆみ、 さとりの 世界せかいみちびかれて いくことになる。 まさに いま、 ここに いたり とどいている すくい、 これが 浄土真宗じょうどしんしゅうすくいである。






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