2019年6月 第92話

朝事*住職の法話

自己じこはなれた学び」
     
仏典の中に、こんな話があります。
『あるとき、 お釈迦しゃかさまが静かに森で憩うておいでになった時、そのお釈迦様の前を大勢の若者がどかどかとかけて行く。
その中の一人が 釈尊しゃくそんのところへ近づいて参りまして申しますのに、「今し方ここを一人の女が大きな物を背負って駈けて行ったはずだ。
どちらの方へ行ったのか言え。」と、このように言った。
あまり若者たちが目の色を変えていますので、 お釈迦様しゃかさまが、「若者達よ一体どうしたのか。」と たずねられました。
そうすると、その者が申しますのに、「今日は休日で自分達は一人一人妻を伴うてこの森に遊びに来たのだ。
ところがその自分達の仲間の中で一人だけ未婚の男性がいて、自分だけが一人ぽっちであることを淋しがって、村から遊女を一人 やとってきた。
ところがその女が、皆が楽しく我を忘れておるうちに、皆の持ち物を一切かっぱらって逃げて行ったのだ。」と。
そのときに 釈尊しゃくそんはこのように申されました。
「若者よ、盗んで逃げた女を追うことも必要であろう。
けれども君達どう思うか、盗んで逃げたものを追い求めるのと、己れ自らを たずね求めるのと、いずれがより大切な事と思うか。」と。
 
 すると、若者達は思いもよらない質問を受けて 唖然あぜんとしました。
しかし己れ自身を忘れて遊びにうつつを抜かしていた彼らは、はっとしたのです。
 お釈迦さまは、「君たちは己れ自らを たずね求めてみたことがあるか。」と問われる。
 若者は、思いもかけぬことで、
「そんなことは今までしてみたこともない。」と言う。
 すると、お釈迦さまは、「ではひとつ、一緒に己れ自らを たずねてみよう。そこには今まで見なかったような、色々大切な、又面白い世界がきっと現われてくる。」
 と言われました。
 仏陀ぶっだは、
「その己れ自らを たずね求めてみるところに、今まで君達が見ることも聞くこともなかったような、 実に妙なる世界が現れて来るであろう。
さぁ一つ私と一緒に今まで たずねてみたことのない己れ自らを探してみようではないか。」
と若者たちに諄々と語りかけられた。』
 仏典のなかにある話は、こういう話です。

 この仏典の中に出てくる若者は、森にピクニックという設定になっていますが、これを、そのまま現代社会に置き換えて、味わえると思うのですね。
 仏陀は現代に生きる私たちに、問いかけておられるような気がします。
 この若者と同じように、盗んで逃げた女性を追いかけていることと同じことを、自分もやっているのかも知れません。
 仏陀の言葉を聞いていると、もっと大事な「己れ自らを たずね求める。」ということを忘れて、 争いに、遊びにうつつを抜かしているのが私自身の姿ではなかったかと思われてくるのですね。

 
 お釈迦様の最も古いお言葉と言われている『スッタニパータ』(法句経)に、

 「これは我がものだと思っているものも、その人が死ねばどこかへいってしまう。我がものにするために、夢中にならぬがよい」と説かれています。

 その人が死ねばどこかへいってしまう、跡形もなく無くなって、失せてしまうものを追いかけるのに夢中になって、苦しんでいく、 そんな人間の姿が教えられている気がします。
 お釈迦様しゃかさまは「夢中にならぬがよい」と言われています。
 その空しいものを追う心を ひるがえし、真実に、心を向けていかなければならない、という親切な お釈迦様しゃかさまのお心が感じられます。
 こういう面からも、 求道ぐどうというものを考えてみなければならないと思う次第です。
 また、 蓮如上人れんにょしょうにんの 『御一代記聞書ごいちだいきききがき』の中に、次のような厳しい言葉があります
往生おうじょうは一人のしのぎなり。一人一人仏法を信じて 後生ごしょうを助かることなり。
 他事のように思う事はかつは我が身をしらぬことなり。」
 ここに親鸞聖人しんらんしょうにんの教えを聞くものにとりまして、 スタート地点が 示唆しさされていると思います。  
 難しいことを考えなくても、一人一人どんな人も、人生の苦というものに、日々対面しながら、苦悩をしのぎながら、生きていますよね。
 「しのぎ」「しのぐ」という言葉は、とても実感がこもっている感じがしませんか?
 お釈迦さまは「人生は苦なり。」と言われています。年齢に関係なく、老若男女、一人一人が、他人に言えない悩み・苦悩があるのでしょう。
 その人生の苦悩をご縁として、一人一人が 仏法聴聞ぶっぽうちょうもんをさせて頂かなければいけないのだなあと思う次第です。
 お寺に参り、 仏法聴聞ぶっぽうちょうもんされている人達は、 自分の人生の苦悩を抱えて、寺に参り、仏様の教えに耳を傾けておられるのでしょう。
 仏法聴聞の大切さを御門徒の姿に教えられてきた気がします。

 「中々、お寺の門は通ることは出来ない。」と言います。お寺に参られ 仏法聴聞ぶっぽうちょうもんされる方は尊い姿だと感じます。
 「寺に参られる方々をして、寺に参り 仏法聴聞ぶっぽうちょうもんさせている力は何なのだろう?」と時々考えます。
 それこそ、「自己自身というものを問題とすること」という姿勢ではなかったでしょうか?
 また、本人は意識していなくても、色々な因縁がその人を 仏法聴聞ぶっぽうちょうもんに向かわせているのでしょう。
 不思議なことです。
 しかし、ここで注意したいことは、 「求道ぐどう」というものは、決して外から命じられてやる性質のものではなく、 その人の内から いてくる、やむにやまれぬ性質のものが「求道」というものでありましょう。
 その 機縁きえんは、それこそ人それぞれですよね。
 しかし、その機縁ということは、「自己に気付く」ということと関係があるのでしょう。
 自己を離れて、求道はあり得ないし、仏法はないと思うのですね。
 人間は、人生の様々な経験を経て、気づかれることが沢山あるのでしょう。
 しかし、自己に関らない教えということは、おおよそ無意味なものでしょう。

 法を聞く場は、自己の人生を離れてはありません。

 島地黙雷しまじもくらい師についての 逸話いつわがあります。
 島地黙雷しまじもくらい師が一人の僧から、「何か仏法の言葉を書いてほしい。」と、 揮毫(きごう)を頼まれました。
 島地黙雷しまじもくらい師は「どんな言葉を書こうかな?」と聞かれると、その僧は 「その言葉を毎日見て、 かてにしたいので有難い言葉を書いてほしい。」と言われました。
 島地黙雷しまじもくらい師は、「それでは、仏様の おおせを書かせて頂こうかな。」と言われ、 「二河白道にがびゃくどうたとえ」にある
『「汝一心正念直来我能護汝」(汝 一心正念にして 直ちに 来れ。我れよく  なんじを  まもらん』
という言葉を
『「汝一心正念直来我能護【汝】」
(汝 一心正念にして 直ちに 来れ。我れよく 
なんじ】を  まもらん』
と書かれました。
彼の僧は、喜びながら読むと、「我能護汝」【我れよく なんじを  まもらん】とあるはずの最後の 【なんじ】の一文字が書かれていないことに気が付きました。
そこで、「和上、【なんじ】の一文字がぬけていますが。」と問うたところ、 島地黙雷しまじもくらい師は、あらたまって、「そこに気付かれたか。」 「そこは、わざと空けてあるのです。」「そこには あなたが入るのだ。」「あなたがそこに入るように空けているのじゃ。」と言われたという。
 『「汝一心正念直来我能護汝」(汝 一心正念にして 直ちに 来れ。我れよく なんじを  まもらん』
とは、単なる理屈ではない。切れば血が出るあなたに呼びかけられている仏様の呼び声であるということを教えられたのでしょう。
 如来様は、苦悩にあえいでいるこの私を場として常に「我に任せてくれよ」と働いておられるのですね。
 他の誰かのためだけの ご本願ほんがんではなくて、苦悩し、涙を流している私たち一人一人、 「私一人」がお目当てだったのですね。
 
 ある 先徳せんとくは次のように言われています。
 『「法は外にあるのではなく、常に自己の内にあって心の扉をたたいているのです。」
「自分に帰るものは仏法に出会わざるを得ない。」
「自らを灯明とすることが仏法を灯明とすることにつながって行く」
 「色々な経験をご縁にして、自己が問題になってくると、自己を見、自己を知ることが、そのまま、自己を超える道に転ずるのでしょう。
 ここに仏法に会う道が開けるのでありましょう。」
 「釈尊しゃくそんは最後の教えを 「まさに自らを 灯明とうみょうとし、自らを依所とせよ。
法を灯明とうみょうとし法を依所とせよ」と教えられています。
 「自己を 灯明とうみょうとし依所とすること」と、「法を灯明とし 依所よりどころとすること」が表裏一体に説かれています。』と。

 自己の人生の中で感じる苦悩や痛み、その中で、仏法に触れるのでしょう。

 法然上人ほうねんしょうにん
月影つきかげいたらぬ さとはなけれども ながむる人のこころにぞすむ」
と歌われました。
 ある御門徒が言われました。
 『親戚の法事に行った時に、法事に来られた住職さんが法話をされました。
  「お釈迦さまは、私たち全ての人達を幸せにしてあげたいのだけれど、教えを自分の心に受け入れないと救われない。
   お月様の光は、全てに平等に注がれているのだけれど、盦【フタ】をしていたら、月の光は うつらないのです。」と法話され、 「そうだなあー。」と印象に残りました。』と。

 しかし、自分というものを問題にすればするほど、自己の限界が見えてきます。
 煩悩ぼんのうの荒れ狂う自分というものが感じられるとともに、 自己の限界を知って、自分があてにできないことを痛感し、自己以上の 拠所よりどころというものを求めずにはおれなくなります。
 失敗ばかりの人生です。しかし、失敗を糧にすることは出来るのでしょうね。
 中々すぐには変われない私ですが、自分は、どうしてもこの自分をこのままで、ほっておくことができないので、何とかこの苦悩を解決したいと思う次第です。
 それこそ、これをご縁に仏法を聴聞していきたいものです。

 蓮如上人れんにょしょうにんの 『御一代記聞書ごいちだいきききがき』の中に、次のような話があります。
『「人の心得のとほり申されけるに、わが心はただ かごに水を入れ候ふように、仏法の お座敷ざしきにては有難くも尊くも存じ候ふが、 やがてもとの 心中心中しんちゅうになされ候と申され候ところに、前々上人 おおせられ候。
その かごを水につけよ。わが身をば法にひてて置くべきよし仰せられ候ふ由に候」と。』
蓮如上人は「その かごを水につけよ」と申されています。
 意訳→『「仏法を聞いている時には、有難いとか、尊いと感じるけれど、すぐに日常の元の心に戻ってしまいます。
 それは、 かごに、いくら水を入れても、漏れてしまうようなものです。」
 という問いに対して、蓮如上人は、 「その かごを水につけよ。わが身をば法にひてて置くようにしなさい。」』と答えられています。
 この問いをした方は、「いくら仏法を聞いても、‎すぐに日常の心に戻る。」ということを「籠にいくら水を入れても、すぐに れてしまう。」という、実に上手い たとえをもって問うておられることに感心させられます。
 また、それに対して、 「その かごを水につけよ。わが身をば仏法にひてて置くようにしなさい。」ということを、 「かごを水につけよ。」という たとえで返された 蓮如上人れんにょしょうにんの答えは、もっと すごいと、感心させられる次第です。
 この問答は、実に素晴らしい問答ではないでしょうか。
 深く味わわせて頂きたいものでございます。
 かごるのが当たり前です。 かごは籠のままに水にひたされるとき水に充たされた籠になるのでした。
 仏様の教えのことを「光明」という言葉で表現されています。
 仏様の教えの光明に照らされて、私自身の 掛値かけねのない姿が照らされてくるのではないでしょうか?
しかし、その悩むこころを捨てておくことができず、片時も離れず 如来にょらいの真実心が寄り添って下っていたのです。
 如来にょらい大悲だいひが私の 煩悩ぼんのうの心に、光明を宿して下されたところこそ、 如来にょらいよりたまわりたる 信心しんじんなのでありましょう。
 
 
ご清聴頂きまして、有り難うございました。 称名

☆☆最後に法語を紹介させて頂きます☆☆      
                             
    
 「今ここに われと仏と 救いあり」能世 芳水師 より  
                           
        
 
ままになるのもならぬのも 
心育てる弥陀の慈悲 
ままになったらお恵みだ   
ままにならぬは忠告ぞ     
よしあし共にお計らい  
早く目覚めよ ご催促   
   
  


ようこそ、お聴聞下さいました。有難うございました。合掌

最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え」の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。

「今ここでの救い」

 念仏ねんぶつおしえに あうものは、いのちを えて はじめて すくいに あずかるのではない。 いま くるしんでいるこの わたくしに、 阿弥陀如来あみだにょらいねがいは、 はたらきかけられている。
親鸞聖人しんらんしょうにんおおせになる。
 信心しんじん さだ まるとき 往生おうじょうまた さだまるなり
 信心しんじん いただくそのときに、たしかな すくい にあずかる。 如来にょらいは、 なやくるしんでいる わたくしを、 そのまま きとめて、 けっして てる ことがない。 本願ほんがんの はたらきに あう そのときに、 煩悩ぼんのうを かかえた わたくしが、 かならほとけになる さだまる。 くるしみ なや人生じんせいも、 如来にょらい慈悲じひあうとき、 もはや、 苦悩くのう のままではない。 阿弥陀如来あみだにょらいいだかれて 人生じんせいあゆみ、 さとりの 世界せかいみちびかれて いくことになる。 まさに いま、 ここに いたり とどいている すくい、 これが 浄土真宗じょうどしんしゅうすくいである。






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