2019年3月 第89話

朝事*住職の法話

やみらすもの」
     
 
 ある仏法ぶっぽうの先生のお父さんという方は大変有難い信者だったそうです。
 その先生は、若い頃、得意になって、自分の信心の領解りょうげをお父さんに話されたそうです。
 われながら上手に話せたと思って自負していたそうです。
 お父さんが言われるのに、「それなら、お浄土へ、参れる、参れる」と言われたので、ますます得意になっていました。
 そのあとに、「参れると思うて参れるお浄土ではないぞ。」と言われたそうです。
 父様は
   「それでよいそれでよい、それで極楽へ参れる。じゃが、参れる様になって参る お浄土か、参れぬこの私を如来様が喚んで下さるのと違うか」
 ということを指摘し教えて下さったのですね。
 この父を持った幸せを感謝しておられます。
 つまり、お父様に、上手に話せたと思ったけれど、それはただ覚えていただけで、本当の信心ではなかったと気づかされたそうです。

 「本願力ほんがんりきで参らせて頂くのであって、自分の覚えていることで参れるのではなかった。」
ということに気付かされたそうです。
 仏教の学問の上では、お父さんより、よく勉強しておられたから、仏教の知識ではお父さんに勝っていたのだそうですが、実際はお父さんの方が 一枚上手いちまいうわてだったのですね。
たとえ仏教の知識はなくても、信心の智恵とは鋭いものですね。
自分が学んだ知識のことを
智解分別ちげふんべつ」と言います。
 それはただの知識なのでした。
 仏法では「味わい」ということや「身に付く」ということを大切にします。
 「味得みとく」とか 「体解たいげ」という言葉でも表します。
 知識を超えた味わいの境地のことを「円解証入えんげしょうにゅう」と言います。
 「本願力ほんがんりき」という働きを抜きにして、信心も何もないのでした。
 「私の信心 どこにあるのか?」「ハイ、本願力銀行に預けてあります」

 私の上にあらわれた「信心」であっても、それは、どこどこまでも仏様の「あなたを必ず救う、必ず仏にする」という阿弥陀様の呼び声の中に 私の信心があるのでした。
 「私は ひょろひょろ 中は空っぽ どうせ 真っすぐに聞かぬ奴」
私は空っぽだから、本願力が間違いないから、私の信心も間違いないのではないでしょうか?
 ある有難い信者の方から来た年賀状に次のような法語が書いてありました。
 「やみ虚空こくう無辺際むへんざい
  荒野こうやを きまよい 無量劫むりょうこう 
  やれうれし 本願ほんがんの月  
  希望を乗せて 差し招く」
 という言葉が毛筆で書かれてありました。

 「やみ虚空こくう無辺際むへんざい
 とあります。
 「千年の闇も 一本のマッチで破られる」
 千年続いた暗室の闇も一瞬の光で破られるように、仏様の真の智恵の光明によって、 「三途さんず黒闇こくあんひらくなり」と親鸞聖人は「和讃」で讃えられました。
 マッチをすらなければ闇は破られない。
それと同じように、 「念仏」によらなければ、「底なしの無明の闇」は晴れる時はない。
 仏陀は「この世の中は暗黒である。このことを はっきり見分ける人は まれである」と言われました。
 この世の闇は 私自身の闇でもありましょう。
「テレビの三面記事の犯罪は、全て私の心を表したものです。」と言われた信者がおられました。
 実際にやらないだけで、同じような心は持っているということですね。

 「歎異抄たんにしょう」という親鸞聖人の語録に次のような言葉があります。
  『またあるとき 聖人しょうにんが、
唯円房ゆいえんぼうはわたしのいうことを しんじるか」と おおせになりました。
そこで「はい、 しんじます」と もうしあげると、「それでは、わたしがいうことに そむかないか」と、 かさねて おおせになったので、つつしんでお けすることを もうしあげました。
すると 聖人しょうにんは、 「まず、 ひと千人殺せんにんころしてくれないか。そうすれば 往生おうじょうはたしかなものになるだろう」と おおせになったのです。
そのとき、「 聖人しょうにんおおせではありますが、わたしのようなものには 一人ひとりとして ころすことなどできるとは おもえません」と もうしあげたところ、「それでは、どうしてこの 親鸞しんらんのいうことに そむかないなどといったのか」と おおせになりました。
つづけて、「これでわかるであろう。どんなことでも 自分じぶんおもどおりになるのなら、 浄土じょうど往生おうじょうするために 千人せんにんひところせとわたしがいったときには、すぐに ころすことができるはずだ。
けれども、 おもどおりに ころすことのできる えんがないから、 一人ひとりころさないだけなのである。
自分じぶんこころいから ころさないわけではない。また、 ころすつもりがなくても、 百人ひゃくにんあるいは 千人せんにんひところすこともあるだろ」と おおせになったのです。』

 この「歎異抄」の言葉から色々なことが教えられます。
「自分の心が善いから悪を犯さないのではない。」 
 「人間は縁次第で、どのような浅ましいことでも行ってしまうものなのだ。」
 「人間というものは 業縁ごうえん 次第しだいで何をしでかすか分からないものなんだ。」
 「悪を犯さないのは、そういう縁がないだけで、自分の心が善いからではない。」と自己過信の自惚れの心を厳しく見つめる言葉ですね。

 ある布教使の方がご法話で言われました。
 「もし、私の心の中が、レントゲンのような機械が体に付いていて、全て皆に見えたら、誰が私の友達になってくれるだろう。」と。
 確かに、そうですね。「あいつ憎い。」と思い始めたら、その思いがどんどん膨らんでいき大きくなっていくのを感じます。
 その思いが見えないから、すました顔で、如何にも善人ぜんにんのような顔で居られるのでしょうね。
 しかし、仏様は、「見てござる。阿弥陀様は、今、見てござる。」向うからは丸見えなんでしょうね。恥ずかしい事です。   
「親」という字は、「木の上に立って、見る」と書きますね。
 「親は子供のことを、常に見ている」という親心でしょう。
 親鸞聖人は「教行信証」という書物の「信巻」で、 真実信心の利益りやくを十種挙げておられます。その中に、 「冥衆護持みょうしゅうごじやく」というものが説かれています。
冥衆みょうしゅう」とは、「凡夫にはあらわに見えない衆生」のことで、 ここでは 「観音かんのん勢至せいし普賢ふげん文殊もんじゅ弥勒みろく等の 諸大菩薩しょだいぼさつや、 一切の善悪の鬼神に至るまですべて」を 「冥衆みょうしゅう」といわれています。
 私は「目に見えないか方々に守られる」という 「利益りやく」と味わわせて頂いています。

 夏になると、 「すだれ」を掛けて涼むという習慣があります。
 すだれは外から、家の中は見えないけれど、 家の中から外はよく見えるというものですね。
 私は、 「冥衆護持みょうしゅうごじやく
 「目に見えない方々から守られる」
 ということから すだれを連想します。
 「こちらからは、見えないのだけれど、向うからはよく見える」
 それは、「常に見られている世界」を頂くことなのではないでしょうか。
 利益りやくというものは、 「仏法ぶっぽう」に対して 「正法しょうほう」に向かい、 一生懸命いっしょうけんめいになっている中で、自然と恵まれていくものなのかも知れません。
 というより「目の見えない方々からの示唆しさ」に 導かれているからこそ、仏縁を頂き、道心の道を歩むことが出来るのですね。
道心どうしんの中に 衣食えじきあり、 衣食えじきの中に 道心どうしんなし」
 という言葉があります。
 何よりも根本は 「道心どうしん」にあるということでしょうね。
 仏様のお心にかなうこととは、一体どういうことでしょうか?
 「人生の一大事いちだいじ目覚めざめて、 みちを求めていくこと。」
 「道心どうしんを起こしていく」ということでしょう。
 「仏法ぶっぽうの勉強、 仏法の聴聞ちょうもんを邪魔するものは、この世の中に何ものもない。」 
 と教えて頂いたことがあります。そういう信念でいきたいものです。
 親鸞聖人は、人間の愚かさ、弱さ、というものに徹底して、仏様の智恵と慈悲を仰がれました。
 「松影の暗きは 月の 光かな」という句があります。
 月の光がなければ、松影の暗いということはわかりません。
 私自身の本当の心の暗さを知らせて下さるものは、仏様の智恵と慈悲の光明であります。

 「光明」というと、何か分かったような分からないような気がしますが、「光明」とは「仏法の教え」のこと
「仏法を聴聞」することが「光明」のご縁に会うことではないでしょうか。
 私自身の暗い心の闇を本当に照らし、温めて下さるもの、育てて下さるものが、「仏様のみ教え」であり、「仏法の聴聞」のご縁に会うという事ではないでしょうか。
 皆さんは毎日お仏壇にお参りされると思います。
 何気なくお参りしていましても、知らず知らず、 仏様ほとけさま莫大ばくだい功徳くどく光明こうみょうを受けているものなのだそうです。
 お互いに、煩悩を抱えた凡夫が、仏様に参る気になることは、それ自体とても尊い事ではないでしょうか。
 「やみはらすもの」というテーマで話させて頂きました。
 たまたま色々なご縁で、「仏法を聞こう。一大事を解決しよう。」と思い立っても、いくら学んでも、自分の知識の中で、くるくる回っているだけでは 情けないですよね。
 「たまたま仏法の縁に会っても、闇を闇で晴らそうとしたことの愚かしさ」私自身、私の心が闇なのに、 闇で闇を晴らそうと計らい続けていたような気がしてなりません。
 やみらすものは、 やみ自身にはありませんよね。
 そこに、「仏様のみ教え」つまり 「光明こうみょう」の 「ご えんに会うこと」の大切さがあります。
 仏縁ぶつえんは、人それぞれ、一人一人違います。
 何がご縁になるか分かりません。ただ「自分の胸に響く仏様の言葉」が大切なのですね。
 「ピンとくる」と言いますよね。
 私にとって「忘れられない言葉」というものが、自分が 仏道ぶつどうあゆかてになっていくのでしょう。
 その「仏様の言葉」を、常に思う事、味わう事、 「憶念おくねん」が大切ですよね。
 身近なところに一句はあります。
 源信和尚げんしんかしょうの言葉に次のようなものがあります。
「正信偈」の中で、親鸞聖人は述べられました。
我亦在彼摂取中がやくざいひ せっしゅうちゅう
「われもひかりの うちにあり」とも説かれています。

 多く覚えていればいいというものでもなく、一句を大切に憶念することが大事なのだそうです。
 「万能足って 一心足らず」という言葉があります。
「多く知っている人は結局は、一つのことを真に理解していない」という意味です。
私自身は不勉強で、多くも知ってはいませんが、こういう「落とし穴」があるのですね。気をつけたい落とし穴だと感じます。
 また、阿弥陀様の誓いに
若不生者不取正覚にゃくふしょうじゃふしゅしょうがく
という言葉が説かれています。 
 「もし、あなたが救われないようなことであったら、わたしは仏と呼ばれる資格がない。」という意味です。
 「昼はひねもす 夜は よもすがら 若不生者不取正覚にゃくふしょうじゃふしゅしょうがくとせまりくる」 
 どこどこまでも、私がどんな状態になっても、どこどこまでも阿弥陀様は
若不生者不取正覚にゃくふしょうじゃふしゅしょうがく
「もし、あなたが救われないようなことであったら、わたしは仏と呼ばれる資格がない。」
 と迫り続けて下さるのですね。 
「私のための仏法」と味わいたいものです。
 それだけ、私の迷いの深さ、闇の深さが深いということですよね。  
 皆さんにとって、仏法の大切な一句、自分の胸に響く一句、ピンとくる仏さまの言葉は、どんな言葉ですか?
 教えてほしいものです。 
「私のための仏法」と味うといいましたが、 日々の暮らしの私の心はどうでしょうか?
 鬼の心、名聞【名誉心、虚栄心】、愛欲は変わらないお粗末極まりない心が私の心の姿ではないでしょうか?
 日々絶え間なく起こり続ける私の煩悩の心に、注がれている仏様の救いの働きを感謝するばかりです。
 「かかる いたずらものを」と先徳が教えて下さいましたが、「私のような煩悩が一分間も消えない者を」と味わう次第です。
 称名
 
ご清聴頂きまして、有り難うございました。 称名

☆☆最後に詩を紹介させて頂きます☆☆         
                             
        
 
自分が光るまで 光を吸飲しよう 
 
 
生きることの むずかしさ    
生きることの ありがたさ     
生きることの うつくしさ   
まかせきって    
生きることのよろこびに  
燃えよう    
【坂村 真民】   
  


ようこそ、お聴聞下さいました。有難うございました。合掌

最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え」の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。

「今ここでの救い」

 念仏ねんぶつおしえに あうものは、いのちを えて はじめて すくいに あずかるのではない。 いま くるしんでいるこの わたくしに、 阿弥陀如来あみだにょらいねがいは、 はたらきかけられている。
親鸞聖人しんらんしょうにんおおせになる。
 信心しんじん さだ まるとき 往生おうじょうまた さだまるなり
 信心しんじん いただくそのときに、たしかな すくい にあずかる。 如来にょらいは、 なやくるしんでいる わたくしを、 そのまま きとめて、 けっして てる ことがない。 本願ほんがんの はたらきに あう そのときに、 煩悩ぼんのうを かかえた わたくしが、 かならほとけになる さだまる。 くるしみ なや人生じんせいも、 如来にょらい慈悲じひあうとき、 もはや、 苦悩くのう のままではない。 阿弥陀如来あみだにょらいいだかれて 人生じんせいあゆみ、 さとりの 世界せかいみちびかれて いくことになる。 まさに いま、 ここに いたり とどいている すくい、 これが 浄土真宗じょうどしんしゅうすくいである。






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