2019年2月 第88話

朝事*住職の法話

ておくれよ」
     
 
 西本願寺勧学にしほんがんじかんがく であられた山本仏骨やまもとぶっこつ師のご法話 「人生の眼と足」【浄土真宗本願寺派(西本願寺)大阪教区布教団】の中に、次のような一節があり心に沁みます。
『・・当時私は西本願寺の伝道院にいましたが、その頃「あなたの問いに答える」というかたちで、人生と宗教の問題について、 本願寺新報に、いろんな人の質問に 答えを書いておりました。
 そうした関係で、ある婦人から一通の手紙をいただいたのです。それには次のようなことが書いてありました。
「私は、鉄道員である夫と一緒に世帯を持ち、三人の子供を育てて、一生懸命にやってきました。
その頃は《仏》とも《法》とも考えず、ただ、この世の中を幸福に過ごすにはどうしたらいいか、少しでも生活を良くしたいと、それだけに一生懸命で 働いてきました。 その甲斐あって三人の子供も成長し、ようやく経済的な余裕もできかけました。そこで夫と相談し、かねてからの念願であった我が家を建てる計画の実現に かかったのです。

 新しい世帯を持ち、借家住まいをしている者にとって、共稼ぎしてでも、どんなささやかなものでも、自分の家を持ちたいと思うことは当然でしょう。
それが一つの人生の目標のように思われたのです。さいわい、私たち夫婦には、その念願を達成する目途がたちました。
私たちは、いっときも早くその夢を実現したいものと、勇んで作業を進めたのです。
 ところが、その家を建てる作業中、ちょうど納屋をつぶしておるとき、納屋が砕けてきて、私はその下敷きになってしまいました。 ほとんど人事不省になるほどの 怪我けがで、私はとても体が痛んだのですが、《家を、家を》という一念から、 一と月ほどもそのままで、痛いことも我慢して、ひたすら建築の算段で働き通しました。
しかし、とうとう体が動かなくなってしまったので、初めて病院へ行って診てもらいました。
その診察の結果、医師がいわれるには、「これは大変なことである。あなたは腰の骨が砕けている。よくここまで辛抱して働き続けたものだね。 だいぶん手遅れになっているから、これから二年は病院でゆっくり治療をうけなけりゃ、命が危ない」といいわたされました。
 ここで私は、がっかりすると同時に、前途が真っ暗になってしまったのです。 今はこうして病院に入っておりますけれども、自分の体の事、お金の事、 子供の事、夫の事、そして親類や近所の事、それらで頭が一杯です。
毎日毎日、私はそれで混乱し、気も狂いそうです。もう近頃は、人にも会いたくないしテレビもみたくない、ラジオも聴きたくありません。 そして、誰もいない、独りきりの所へ行ってしまいたいような衝動にかられます。
 この虚しい寂しい心が、いったい何によって支えられるのでしょうか。・・・・・・・私はどうしたらいいのでしょうか。


ということでした。私はこの悲痛な手紙を読みながら、一度もお会いしたこともない、そのひとの苦しんでおられる姿が、文字の底にありありと浮かんでくるように 思われました。
 現在、多少事情は違うにしても、このような悩み苦しみに、さいなまれいおるかたがたが、非常に多いのではなかろうかと思うのです。
 こうした問題に対して、いったい救いとはどんなことかということが、真剣に考えられねばならないでしょう。 そこに私は、この人生を見る目と、そしてこの複雑な人生の中に、いろいろな環境を乗りこえていく足をしっかり持つことが、何より大切なことかと思うのであります。
 ところで、私がこの「人生の眼と足」という言葉を使いましたが、実は、これは私の思いつきでなく、もとは 源信僧都げんしんそうず
往生要集おうじょうようしゅう』の初めに、 「それ往生極楽の経教は 濁世末代じょくせまつだいの目足なり」といわれてあるものによっていったのです。
すなわち、阿弥陀如来の本願の救いが、この濁った世、混乱した時代を生きぬく、目となり、足となるのである-と、源信僧都がいわれているのであります。

そこでこのお言葉を、わが親鸞聖人も、よほど深く味あわれたとみえて、晩年八十歳になってお書きになさった
浄土文類聚鈔じょうどもんるいじゅしょう』には、二回もこの目足という文字をお使いになっておられます。
私は若い頃から、このお言葉を聞かせていただいていましたが、フト見知らぬ婦人からいただいた手紙を読みつつ、今更のごとく私の心の中に、眼と足という文字が、 浮かびあがってきたのであります。
 眼と足は、私たちが道を歩いて行くときでも、無ければならぬ大切なものです。眼があっても足がなければ進めませんし、足があっても眼がなければ、目標を 見ることができません。 眼と足がそろってこそ、はじめてどこへでも行くことができる。仏さまのみ教えは、その私たちの眼となり、足となって下さる。 私はそういう眼と足を完全に備えさせていただいてこそ、「救われた」といえるのだと思うのです。
 「救い」とは、何か自分もよくわからない、まじないのような言葉を唱えて祈っておれば、知らぬ間に何か神秘なものが働いてきて、自分の環境を変えてくれるように 思ったり、あるいは、遠い向うに憧れの楽しい世界を思い浮かべて、それで自分の心を紛らかす、というようなことではありません。
そのようなことで「救い」を説く者があるとすれば、いずれも現実に適したものとはいえません。ただまじないの言葉を唱えておれば、知らぬ間に境遇が変えられる というようなことは、ありそうなはずもないし、また遠い向うに一つの憧れの世界を浮かべて、それで自分の心を慰めるというようなことは、 それこそ一種の阿片的なものだといわれても仕方ないでしょう。
 
 特に、浄土真宗の教えが、たんなる来世教のように考えられ、遠い向うの楽しい夢を憧れるもののように思われているとすれば、大変なことです。
親鸞聖人のみ教えは決してそんなものではなく、今、この複雑な世の中に、人生を見るたしかな眼を与えていただき、そして、どんな境遇の中にも 立ちあがって、いかなる環境をも乗りこえて前進できる、心の足を与えていただくということなのです。
そこにこそ、親鸞聖人の示された本願の信仰の「救い」があるということを、はっきりしなければなりません。
 一般に、現代は不安の時代だといわれています。その不安とは、つきつめた原因や、対象があれば、それは不安といわず、恐怖といいます。 現在はその不安の時代であって、何とはなしに落ちつかない、そうした中に心をいらだてているのです。
では、私たちはいったいどのように生きたらいいのでしょうか。』
    「人生の眼と足」
【浄土真宗本願寺派(西本願寺)大阪教区布教団】より
 大変大切なご指摘だと思うので、長々引用させて頂きました。
 こんな引用をしましたのも、この人生の苦しみに直面されて、言うに言えない苦しみを心の中に持ちながら生きておられる方の姿に触れるご縁が多いからです。
 そんな人たちに安易な慰めなど通用しないと思うのです。「人間は 流転るてんの言葉しか言えない。」という言葉聞いたことがあります。
 「流転の言葉」とは、その場限りのいい加減な言葉しか言えないというような意味だと感じました。

 以前に、介護の関係している仕事をしている方が、「私は車椅子を押して上げることは出来ますが、車椅子に乗っている方の気持ちにはなれません。」と 私に言われた方がおられました。
 何故そんなことを私に言われたのか知りませんが、その時にその人のやりきれなさみたいなものを感じましたし、とても実感がこもっていたのを覚えています。
 自分の力の限界を感じさせられることであります。
 源信僧都げんしんそうずの言葉に 阿弥陀様あみださまのことを表現された言葉に
極大慈悲母ごくだいじひも」という言葉があります。
「極めて大なるお慈悲のお母さま」という意味です。これを「母親の慈悲を百億千倍大きくしたのが如来さま」と表現された方がおられました。 
 淋しさと苦悩の底に どんな時でも変わらない お慈悲の働きを感ずることは 大きな支えになるのではないかと思うことです。
 どんなときでも変わらない心が凡夫にあるでしょうか?凡夫の心は変わり通しではないでしょうか?
 お経には、「人間の心は猿のように動き回り、五欲の枝を飛び回る。」という意味の言葉がありますが、誠にその通りですね。

 源信和尚げんしんかしょう【源信僧都】の
横川法語よかわほうご」にも妄念についてのお言葉がございます。

 『妄念もうねん凡夫ぼんぶ地体じたいなり 妄念もうねんのほかに 別に心はなきなり』と。
 人間は  妄念もうねんしかない、 妄念もうねんで出来ているのが人間というものだという意味です。
 しかし、源信和尚げんしんかしょう【源信僧都】は、 「人間は妄念の固まりだ。」ということを説かれると同時に、
我亦在彼摂取中がやくざいひ せっしゅうちゅう
「われもひかりの うちにあり」とも説かれています。
極重悪人唯称仏ごくじゅうあくにんゆいしょうぶつ
我亦在彼摂取中がやくざいひ せっしゅうちゅう
煩悩障眼雖不見ぼんのうしょうけんすいふけん
大悲無倦常照我だいひむけんじようしょうが」  【「正信偈」親鸞聖人】
「きわめて罪の重い悪人はただ念仏すべきである。わたしもまた阿弥陀仏の光明の中に摂め取られているけれども、 煩悩がわたしの眼をさえぎって、見たてまつることができない。しかしながら、阿弥陀仏の大いなる光明は、 そのようなわたしを嫌がることなくて、常に照らしていてくださる」
【「正信偈」親鸞聖人】と述べられました。

源信和尚 【924~1017年】は、現在の奈良県でお生まれになりました。仏法を篤く敬うお母様に育てられた源信和尚は、やがて出家して比叡山の僧侶となられます。
ついに、天皇より、「源信から、経典の講釈を聞きたい」と、要請がありました。
この時、源信は15歳でした。天皇はじめ群臣百官に説法したのです。
天皇は、褒美として、珍宝を与えました。
源信は、早速、手紙に書き、天皇から贈られた品々と共に、郷里の母のもとへ送られました。
ところが、間もなく、母から、全ての荷物が、
「後の世を渡す橋とぞ思ひしに  世渡る僧となるぞ悲しき」という和歌を添えて送り返されてきました。
「権力者に褒められたくらいで有頂天になり、地位や財物を得て喜んでいるとは情けないことです。
名誉や利益のために説法するような、坊主となり果てたことは口惜しいことです。
後生の一大事を解決するまでは、仏道を求め抜く覚悟で、山へ入ったのではなかったのですか。
夢のような儚い世にあって、迷っている人間から褒められて何になりましょうか。
後生の一大事を解決して、仏さまに褒められる人にならねばなりません。
そして、全ての人に、後生の一大事の解決の道を伝える、尊い僧侶になってもらいたいのです。 
 母の願いは、この私を悟りに導いてくれる僧侶になってもらうことなのです。」
「後の世を渡す橋とぞ思いしに   世渡る僧となるぞ悲しき」
「出世を喜ぶとは情けない。 真に仏道を歩み、 多くの人々に真実の教えを伝える僧侶となってほしい」と厳しく諭されたのでした。
    
源信和尚は、ひたすら、後生の一大事の解決を求めて、勉学に励まれました。
源信和尚は、栄耀栄華の道と決別し、ひたすら浄土往生を願って修行にはげまれるようになられました。
それから25年以上の歳月が流れ、阿弥陀仏の本願によって、後生の一大事の解決を果たした源信は、 「今度こそ、お母様に喜んで頂ける」と思って、郷里へ向かわれました。
源信和尚さま郷里に帰ると、母親に仏法を伝えられました。
「後生の一大事の解決は、阿弥陀仏の本願によらねば、決してできないのです。」と。
この母あって、この子ありですね。
親鸞聖人も源信和尚を慕われました。源信和尚の言葉に、次のような言葉がございます。
 「人間に生まれたること、大きなるよろこびなり」と。
 なぜ、源信和尚は、人の世に生まれたことを そのようにお喜びになられたのでありましょうか。
それは、人間に生まれたら、「仏法を聴聞する」ご縁が頂ける。
仏法を聴聞すると、「本願」に出遇うことが出来る。「お念仏」に出遇うことが出来るからであります。 
源信和尚は、「人間は妄念の固まりだ。」と説かれました。
仏様の智恵の「光に出会う」ということは、「照らし出される」ということです。
光に照らされてみれば、それまで 全く 見えなかったものの姿が見えてきます。
そして、それは、同時に、照らされたものの姿そのものが、光に包まれることであります。
闇の中では、光も影も分かりません。光と出会うことによって、自分の本当の姿を知らされるのです。 
この自分というものが 光に出会い、本当の自己のあり方を照らし出され知らされるとともに、その私に光が当てられるのであります。
照らし出されると共に、照らし出された私は光の中にあったことを知らされるのであります。

『往生要集』を書かれた源信和尚は、お念仏の教えただ一つを、私たちに勧めて下さいました。
一代仏教のみ教えは、お釈迦さまの尊い教えですが、どうして、一代仏教に通じた源信和尚が、その中で、お念仏の教えただ一つを勧めて下さったのでしょうか。
源信和尚は、『往生要集』の冒頭で、次のように述べられています。 「一代仏教には、沢山の教えがある。勝れた智慧をそなえて清らかに生きる人であれば、高度な教えや修行でも、難しいということはないでしょう。
しかし、私のように頑なで愚かな者が、どうして高度な教えや修行を実践することができるだろうか。
だから私は、一代仏教の中で、ただお念仏の教え一つをよりどころとして、仏典の大切なお言葉を集めるのである」
 このように源信和尚は、「自分のように頑なで愚かな者」には、「お念仏の教え一つ」しかない、と言われているのです。
源信和尚は、才能をお持ちの方でした。しかし、浄土往生を願い、阿弥陀様と向き合ったとき、阿弥陀様の光により、 源信和尚の、最も深いところが照らし出され、見えてきたのが、「頑なで愚か者」という、煩悩に満ちた凡夫の姿だったのです。
「本師源信ねんごろに 一代仏教のそのなかに 念仏一門ひらきてぞ 濁世末代をしへける」  【「和讃」親鸞聖人】
 煩悩に満ちた凡夫に向けて開かれていたのは、一代仏教の中でただ一つ、お念仏の教えでした。
源信和尚にとってそれは、他人事ではなく、自分自身の問題でした。だからこそ、濁世末代を生きる私達に、念仏一門をおすすめ下さいました。
 「極重の悪人、他の方便なし、唯だ仏を称念して極楽に生ずることを得」  【「和讃」親鸞聖人】
 「極重の悪人はただお念仏を称えなさい。念仏申す者は、阿弥陀如来の『必ず浄土に救う』という光明の中におさめとられて漏れることがないのです」と。
 極重の悪人。それは極めて罪の重い悪人のことです。
 親鸞聖人は、この「悪人である私の救い」ということを問題にして下さり、ご苦労下さいました。
親鸞聖人は、全ての人が漏れることなく救われるために、落ちこぼれる人がいなくなるように、全ての人の救いのために、ご苦労して下さいました。

 親鸞聖人は和讃に次のように説かれています。

 煩悩ぼんのうにまなこさへられて
 摂取せっしゅの光明みざれども
 大悲だいひものうきことなくて
 つねにわが身をてらすなり
      【高僧和讃】
 「私は煩悩のために、欲望に眼をふさがれて、その光明を見ることが出来ません。
 しかし、そんな私を阿弥陀如来の大いなるお慈悲の光明
『大悲』は、決して嫌がられることなく 『無倦むけん』、いつも私を照らしていて 『常照我じょうしょうが』下さいます。」と教えられます。

浄土真宗の教えは「南無阿弥陀仏」のいわれ【働き・功徳】を聞かせて頂くこと、わが身に頂くことが要です。 
念仏は「必ず救う」という仏様の呼び声です。
汝一心正念なんじいっしんしょうねんにして ただちたれ われ なんじまもらん』という 善導大師ぜんどうだいしの 「二河白道にがびゃくどう」の教えの中の 「阿弥陀様の呼び声」を池山栄吉氏は次のように味わわれています。
『「汝一心正念にして 直ちに来れ 我能く汝を護らん」
 この言葉について、池山栄吉さんは、『佛と人』で、「念仏の心意気がよくこの言葉に現れている。
今これを放浪の旅を続ける一人子の帰りを、故郷に待ちわびる母の心に引き合わすことを許されるならば、
「直ちに来たれ」を「スグキテオクレヨ」と訓じ、一心正念に「オネガイダカラ」と仮名を振っても、 そう見当は外れていまいと思う、」と。』
「オネガイダカラスグキテオクレヨ」とわかりやすい言葉にして下さっている。
 苦しみの中にある人間を救うのは理屈ではない。温かい慈悲のこころではないだろうか。
それは高いところから低い私に差し伸べられた救いの手であると同時に、常に、私のそばに寄り添い、私と共に苦しんで下さっている慈悲の活動ではないだろうか。
池山栄吉さんは、如来さまの慈悲の呼び声を「オネガイダカラスグキテオクレヨ」と表されている。
 如来さまに「オネガイダカラスグキテオクレヨ 」と頼まれたら、その慈悲の呼び声に温められていくのではないだろうか。
 「み仏の力一つを 力にて 力無き身の 力強さよ」

ご清聴頂きまして、有り難うございました。 称名

☆☆最後に詩を紹介させて頂きます☆☆         
                             
              
 
夜が明けるということは、 
 
なんとありがたいことだろう。 
光が射してくるということは、   
なんとうれしいことだろう    
  
道は数限りなくあれど、  
わが辿る道はただ一つのみ。  
花は数限りなくあれど、  
わが願う花はただ一つのみ。    
わが道をいかしたまえ、  
わが花を咲かしたまえ  
  
【坂村 真民】   
  


ようこそ、お聴聞下さいました。有難うございました。合掌

最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え」の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。

「今ここでの救い」

 念仏ねんぶつおしえに あうものは、いのちを えて はじめて すくいに あずかるのではない。 いま くるしんでいるこの わたくしに、 阿弥陀如来あみだにょらいねがいは、 はたらきかけられている。
親鸞聖人しんらんしょうにんおおせになる。
 信心しんじん さだ まるとき 往生おうじょうまた さだまるなり
 信心しんじん いただくそのときに、たしかな すくい にあずかる。 如来にょらいは、 なやくるしんでいる わたくしを、 そのまま きとめて、 けっして てる ことがない。 本願ほんがんの はたらきに あう そのときに、 煩悩ぼんのうを かかえた わたくしが、 かならほとけになる さだまる。 くるしみ なや人生じんせいも、 如来にょらい慈悲じひあうとき、 もはや、 苦悩くのう のままではない。 阿弥陀如来あみだにょらいいだかれて 人生じんせいあゆみ、 さとりの 世界せかいみちびかれて いくことになる。 まさに いま、 ここに いたり とどいている すくい、 これが 浄土真宗じょうどしんしゅうすくいである。






トップページへ   朝事の案内   書庫を見る