2019年1月 第87話

朝事*住職の法話

仏法ぶっぽう大切たいせつに」
     
 新年あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。
 今年も「仏法ぶっぽう第一だいいち」 を心掛けて、仏法を大切にしていきたいものです。
 仏法はお釈迦様の悟りの世界から説かれています。
 悟りとは「目覚め」ということです。悟りの世界が 凡夫ぼんぶに分かるわけはないでしょう。
 浄土真宗では、分かるということではなく、知識ではなくて、「信心」が大切だと説かれています。
 「信心」という言葉の前に「他力の信心」というように「他力の働き」という意味が「信心」という言葉の前に記されています。
 仏法を聞く知恵は、仏法の働きにあると言います。私の力で仏法を 聴聞ちょうもんしているのではありません。
 表面的には、私が一生懸命になって仏法を求めて、仏法を聴聞しているように見えますし、それは、ある意味で当たっていますよね。
 ご門徒の方だって、ご多用な中、時間をやりくりして、寺に参られて、仏法を聴聞されているのでしょう。
 しかし、実際には、私の方が仏法に つかまえられたのでしょう。
 「釈迦しゃかは『行け』、 弥陀みだは『来い』の 待ち伏せ【まちぶせ】に会う」と言われた信者がおられたそうです。
人間に生まれて、仏法に会うことを、 釈尊しゃくそん阿弥陀様あみださまの待ち伏せ【まちぶせ】に会うと味わわれたのですね。
 「待ち伏せ」【まちぶせ】という言い方は、深い味わいがあると感じますね。
 自分【自我】より高い意識や広い心が、低い意識、狭い心【自我】を常にとらえているのでしょうか?
 自分が知らないうちに、自分よりはるかに高い意識や広い心が私をとらえているのでしょうか?

 「惠蛄春秋けいこしゅんじゅうを知らず」という言葉があります。
 惠蛄けいことはセミのことです。
ひと夏、精一杯生きたセミは春と秋を知らないという意味です。
私たちが「全て」と思っている「この世」も、セミの生きている「夏」のようなものなのかも知れません。
 セミのことを笑えないような気がします。
 私達には、部分は見えても、全体は見えていないのでしょうね。
前後の季節、春と秋を知って初めて夏が分かるように
 私達も生まれる前【春】や、死んだ後【秋】のことを知って、初めて「この世」のことが分かるのでしょうね。
中国の 曇鸞大師どんらんだいしの 『往生論註おうじょうろんちゅう』にこの様な一節があります。
『「蟪蛄けいこは春秋を識(し)らず」といふがごとし。この虫あに朱陽の節を知らんや。』【「往生論註」】
 『蝉は春秋を知らない。短い夏を一生とするから、この虫は夏ということを知らないのである。』という意味です。
 夏の蝉は地上に這い出て、短い命を終えます。春と秋を一生の外で経験することはありません。
 だから、今が夏であるということも知らないのです。
 これと同じように、私達は仏の悟りの世界を知りません。
 ですから、今が苦しみの世界であること、迷いの世界であることも知らないのです。
 人間も自分が体験したことのないことは分かりませんし、理解することが出来ません。
 このような私達に対して、新たな気づきを与えてくれるのが仏法であります。
 そういう意味で、仏様の悟りの世界から説かれた、目覚めた方、ブッダの話に素直に耳を傾け、仏法をより所として、この人生を生きていくことが大切でしょう。
 あるご門徒が言われました。
 「仏法ぶっぽうを向こうに見て ながめているだけでは駄目でしょう。
 自分が努力しなければ意味ないでしょう。」と。
 「向うに見ているだけ、 ながめているだけでは駄目だ。」と。
 「向うに見ている、眺めている」時には、「自分抜き」の仏法になってしまっているのでしようか?

 「全て他人事」にしてしまっているのでしょうか?
 差別問題にしましても、「こういう差別記載がある。」と、「どこかに差別心からこういう表現がなされている。」とだけ考えています。
 自分を抜きにして、客観的に差別問題を考えて、「私の問題」として差別ということを考えていないのかも知れません。
 そうではなく、「私に差別心がないだろうか!?」という肝心な問題から外れて、差別問題を考えているのかも知れませんね。
家の中にも差別があるのかも知れません。何でも、問題は遠くあるのではなくて、実は身近にあるものなのかも知れません。
 人間は煩悩のかたまりであると言いますが、中々煩悩や妄念から離れられません。

 榎本栄一えのもとえいいちという念仏詩人がおられました。
 「いのちえいずるままに」榎本栄一 櫛谷宗則【柏樹社】の中に次のように記されています。
 
『 いろもなし 
 
 妄念 湧くままに
 なむあみだぶつ申すとき
 この奥に
 仏 生【あ】れ座【ま】す
 いろもなし 形もなし
   「難度海」      』
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 「妄念湧くままに」というのは、私の心の中に瞬時も休みなく、モヤモヤもろもろ浮かんでくる思いです。
 それが「なむあみだぶつ申すとき」その妄念が見えてくるのです。
 「念仏申せば仏になる」という有名な言葉がありますが、私にとりましてこのお言葉はちょっと一足飛びすぎて、その間の説明が少し足りないと思います。
 念仏申すとき仏になるのではなく、念仏申すとき妄念が見える。
 
 妄念というのは、思い、概念、あるいは煩悩、みな妄念です。
 その妄念が見えても手出ししてはいけません。「あっ、何んと嫌な妄念妄想や」と思って、逃げかけたり、  退けかけたりすると、それは鳥モチみたいに引っついてきます。
 そこでただ妄念湧くままに 南無阿弥陀仏と念仏していると、その妄念が自分に取りつかずに流れていきます。
 その流れていくのを嬉しいとも、「わしが念仏唱えているから妄念の奴、流れていきよる」とも思わず、つかまず、ただ見えておるままに念仏申している時 「この奥に仏生【あ】れ坐【ま】す いろもなし形もなし」と。 

 ここには「自分には分からないけれども」という一行が削ってあります。 
 自分にはその形としてみえないけれども、仏が自ずからお生れになっている。
 妄念は見えるけれど、その奥から生まれてくる仏は見えない。しかしながら、自分の知らない間に自ずと現われて坐【ま】しますということです。
 だから妄念や仏をつかもうとしても駄目です。南無阿弥陀仏と申していたら妄念は見えます。
 それに手出ししないでいると、その妄念が引っつかず、自分のぐるりを流れていくようやと、それだけです。
 その先を見ようと思って南無阿弥陀仏と申しても、仏はお生まれにならないでしょう。
 ただただ念仏申していたら、自然にこの詩のような光景になってまいります。
 ですからこんな私の説明も頭におかず、ただただ南無阿弥陀仏と申して頂くのがよろしいと思います。
*「いのちえいずるままに」榎本栄一櫛谷宗則*
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 榎本栄一の言葉は、妄念だらけで、仏法を大切にと思いながらも、妄念の方が何倍も強く押し流されていく私の指針となります。
 源信和尚げんしんかしょうの 「横川法語よかわほうご」にも妄念についてのお言葉がございます。

 『妄念もうねん凡夫ぼんぶ地体じたいなり 妄念もうねんのほかに 別に心はなきなり』と。
 人間は  妄念もうねんしかない、 妄念もうねんで出来ているのが人間というものだという意味です。
 「横川法語よかわほうご」の原文を紹介します。
『まづ三悪道をはなれて人間に生るること、おほきなるよろこびなり。
身はいやしくとも畜生におとらんや。
 家はまづしくとも餓鬼にまさるべし。
心におもふことかなはずとも地獄の苦にくらぶべからず。
世の住み憂きはいとふたよりなり。
 このゆゑに人間に生れたることをよろこぶべし。
 信心あさけれども本願ふかきゆゑに、たのめばかならず往生す。
念仏ものうけれども、となふればさだめて来迎にあづかる。
功徳莫大なるゆゑに、本願にあふことをよろこぶべし。
またいはく、妄念はもとより凡夫の地体なり。
妄念のほかに別に心はなきなり。
臨終の時までは一向妄念の凡夫にてあるべきぞとこころえて念仏すれば、来迎にあづかりて蓮台に乗ずるときこそ、妄念をひるがへしてさとりの心とはなれ。
妄念のうちより申しいだしたる念仏は、濁りに染まぬ蓮のごとくにて、決定往生疑あるべからず。 』【源信和尚】
 
横川法語よかわほうご・現代語意訳』
 「生きとし生けるもの全ての中において、三悪道【地獄・餓鬼・畜生】を離れて、人間に生まれたという事は、大きな喜びです。
 生活の中で多少の喜びを感じる事はあっても、怒り、腹立ち、そねみ、ねたむ心多く、 人間に生まれた喜びを実感することは中々難しいのではないだろうか。
   しかし、そのような日常生活にあっても、地獄、餓鬼、畜生をのがれて、人間に生まれた事は、大いなる喜びであるという。
 身は欲にまみれていても、畜生より劣ると言うことはありません。
 家が貧しくとも、餓鬼より勝ります。
 心の中に思うことが叶わなくても、地獄の苦しみには比べようもありません。
 世の中の住み難さ、不満は、この世を厭うご縁なのです。
 だから、人間に生まれたことを喜ぶことです。
 信心は浅いかも知れませんが、阿弥陀仏の本願があまりにも深いので、頼めば必ず浄土に往生出来るのです。
 念仏を称えるのは気の進まなくても、唱えれば、必ず来迎に出会えるのです。
 阿弥陀仏の功徳は莫大なのですから、阿弥陀仏の本願に出会うことを、喜ぶべきなのです。
 また妄念は、本来私たち凡夫の身に備わったものです。
 私たちは妄念の外には別の心などないのです。
 臨終の時までは、私は妄念の凡夫であると自覚して、一向に念仏すれば、来迎に出会って、蓮の台に乗る時にこそ、妄念をひるがえして、 悟りの心を持つことなるのです。
 その妄念のままに念仏申せと勧められる。
 心を静めて念仏申すとか、清らかな身となって念仏申すのではなくて、そのままに、妄念をいとわず、信心を起こすことのできない心を深くなげきながら、 それでも、念仏申すことが大切である。

 この日常生活の中で苦悩する妄念だらけの身の私たちこそが、弥陀の摂取不捨の悲願に出会うご縁となるからである。
 信心あさくとも、この弥陀の本願が深きがゆえに、どのような心で申す念仏であっても必ず受けとめてくださる。
 妄念を持ったままで称えている念仏は、汚れに染まない蓮のように、必ず浄土へ往生するのですから、疑ってはならないのです。
 妄念があると言う事実を嫌わないで、むしろ、真実の信心が浅いのだと思って、南無阿弥陀仏の名号を唱えることが大切です。」 
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 ここに、「世の住み憂きはいとふたよりなり。」とあります。
 「世の中の住み難さ、不満は、ご縁」なのです。
 「この日常生活の中で苦悩する妄念だらけの身の私たちこそが、弥陀の摂取不捨の悲願に出会うご縁」となるからである。
 仏法の先生が説かれました。
 「仏様の救いの活動の舞台は、私を舞台に活動していて下さる。死ぬまで。
 命終わったら、それがそのままお浄土になるのであります。
 仏法が身に付かなければいけない。」妄念では私は救われない。
 仏法が身に付くとは、理屈や知識ではない。
 本願力ほんがんりきを頂いて感謝と懺悔の念仏生活をさせて頂くことが大切である。」
 仏様の智恵と慈悲を仰いでいくのであります。

 「仏法の目的は、 生死しょうじえて 解脱げだつすることだと教えられています。
 煩悩ぼんのううしばられ 妄念もうねんしばられることから 解放かいほうされた 絶対自由ぜったいじゆうの世界。
 解脱げだつの世界こそが本当の自由の世界で、その目的を果たしてくれるのが仏法であります。」と。
 妄念もうねんしばられ苦悩の絶えない自我の喜びの好きな私ですが、 自我の喜び以上の本当に大切なものを教えて頂いたことは、この上ない喜びであると、不思議なご縁を味わわせて頂く次第です。

 本年も仏法を大切に、生死を解脱する道、 浄土往生じょうどおうじょうの道を歩ませて頂きたいものです。
 浄土真宗では「聞く」教えを聞くこと、 「聞信もんしん」が大切であります。 
 「聞信もんしん」のところに実践が完成される。
 そういう「聞く」であります。
ご清聴頂きまして、有り難うございました。 称名

☆☆最後に詩を紹介させて頂きます☆☆         
                             
              
 
あせるな いそぐな 
馬鹿にされようと 笑われようと 
じぶんの道を まっすぐゆこう   
時間をかけて みがいてゆこう    
  
死のうと思う日はないが  
生きてゆく力がなくなることがある  
そんな時お寺を訪ね 私ひとり  
仏陀の前に座ってくる    
力わき明日を思う心が  
出てくるまで座ってくる  
  
【坂村 真民】   
  


ようこそ、お聴聞下さいました。有難うございました。合掌

最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え」の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。

「今ここでの救い」

 念仏ねんぶつおしえに あうものは、いのちを えて はじめて すくいに あずかるのではない。 いま くるしんでいるこの わたくしに、 阿弥陀如来あみだにょらいねがいは、 はたらきかけられている。
親鸞聖人しんらんしょうにんおおせになる。
 信心しんじん さだ まるとき 往生おうじょうまた さだまるなり
 信心しんじん いただくそのときに、たしかな すくい にあずかる。 如来にょらいは、 なやくるしんでいる わたくしを、 そのまま きとめて、 けっして てる ことがない。 本願ほんがんの はたらきに あう そのときに、 煩悩ぼんのうを かかえた わたくしが、 かならほとけになる さだまる。 くるしみ なや人生じんせいも、 如来にょらい慈悲じひあうとき、 もはや、 苦悩くのう のままではない。 阿弥陀如来あみだにょらいいだかれて 人生じんせいあゆみ、 さとりの 世界せかいみちびかれて いくことになる。 まさに いま、 ここに いたり とどいている すくい、 これが 浄土真宗じょうどしんしゅうすくいである。






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