平成30年12月 第86話

朝事*住職の法話

「既にとどいている 慈悲じひ
     
 仏法ぶっぽうで  『慈悲じひ』ということを説きます。
「慈」は、マイトリー『友情』、「悲」は、カルナー『うめき』
仏・ 菩薩ぼさつが人々をあわれみ、楽しみを与え、苦しみを取り除くこと。
人々に楽を与え『慈』、苦しみを取り除くこと『悲』を意味する。
「慈悲」は、「慈」の心と、「悲」の心に分けられます。
「慈」には、「苦しみを抜いてやりたい」という 「抜苦ばっく」の意味。
「悲」には、「楽しみを与えてやりたい」という 「与楽よらく」の意味。
「慈悲」とは「抜苦与楽ばっくよらく」を意味する。


 人間の慈悲は、「平等ではなく、差別がある」「一時的」「続かない」と説かれています。
 仏様の慈悲は「平等」「変わらない」「智慧・真理に裏づけられている」 と説かれています。
 「生きとし生けるものを苦から救済する」という利他行を展開せしめる原動力がこの「慈悲」です。
 「慈悲」は,基本的には「自己は無我であると悟るところにあらわれる自他不二の精神」から起こる。
 「慈悲」は限りがなく、一切の差別がない。
 男女、老若、賢愚、貧豊も関係なく、人種、職業、姿形等も関係なく、平等に注がれるのが、「慈悲」です。

 
 「慈悲心」には、「無縁の慈悲」があります。
 無縁むえんとは慈悲心の 自然じねんの働きをいうものであり、それは仏にしかない心であるといいます。
 人間は自分に縁の深いものは助けようとするけれど、縁が遠いと助けようとしない。
 縁があるものだけ大切にするけれど、仏様は縁の無いものでも救って下さるのですね。
 「私の親様」なんですね。「無縁の慈悲心」が本当の大悲です。

 「慈悲」の「慈」は『友情』『友達』『寄り添う』というような味わいがあります。
 「いつでも、どこでも、誰でも」救いの働きは届けられています。
 私自身に味わうとき、「今、ここ、私」に届けられているのが阿弥陀様の慈悲の働きと味わえます。

 「如来さまの光明の内住まい、いつも仏様と二人連れ」
 
 「どうして『慈悲』という優しいイメージの意味が 『うめき』なのか?」
 それは、私が苦しみにのたうちまわって、 うめいているときに、私と一体になって うめいて下さっている。
 私と一体の 「同体どうたい慈悲じひ」という働きを表しているのでした。

 ある布教使さんが法話されました。

 『大怪我しました。耐えがたい激痛の入院生活。
 医師の説明を聞いて、今後の生活が不安で不安でたまらなくなりました。
 痛みで一晩中のたうちまわりました。
 そんなとき、苦しみの中で、「人生における苦しみは、すべて如来のはげましである」という法語が目に入ったそうです。
 「人生における苦しみ」「ああ今まさに私の今のことだな。」と感得されたそうです。
 そんな時に、ふと学生時代に聞いた仏教の話を思い出されたそうです。
「阿弥陀様は御慈悲の仏様」
「慈悲とは、マイトリ―カルナという意味」
「マイトリーとは真の友情、真に寄り添うということ」
「口へんに申すで“呻(うめ)く”。カルナとは“呻く”という意味」
 阿弥陀さまはこの痛みや不安に苦しむ私に寄り添って下さっている。
 そして私のこの痛みや不安に対して同じ様に呻いておって下さる。
 あの一晩中、呻き苦しみのた打ち回って夜、阿弥陀さまも一緒にのた打ち回って下さっておったのだなぁ… と思った瞬間、 お念仏と共に涙が込み上げてきたそうです。嬉しい涙だったそうです。
 「辛いなぁ、痛いなぁ、苦しいなぁ」と呻く私に寄り添いながら、
 「つらいよね、苦しいよね、でも私はもうあなたのそばを決して離れません。
 私があなたと同じお悟りの仏になるまで、私はあなたの命を共に生きていきましょう。」
 お念仏をしながら、阿弥陀様のそんなお声を聞かしていただいた気がしたのだそうです。
 その時はじめて「頑張ってみようかな」という気が持てたのだそうです。
 そして、この阿弥陀様の御慈悲は私だけではない、全ての人に働きかけていて下さるのだと思った時、 「そのことをお話しさせていただきい!」と思われたそうです。』

 とても感銘うけました。

 「愛は自分が中心で、慈悲は無我であり、相手が先である。」
 「愛は自分が中心だから、相手が自分の思う通りにしていてくれる時は愛するけれど、自分の意に反したことをすると憎しみに変わる」というのですね。 

 ある一流のプロのスポーツ選手が雑誌のインタビューの中で言われていました。
 「勝った時は英雄扱いだけれど、負けた時は、まるで犯罪者扱いだ。」と言われていました。
 観客は負けたら腹が立つのでしょうね。
 「腹が立つ」「怒り」とは「自分の思い通りにならないから腹が立つ、思い通りにならないから苦しみになる」ということです。
 その愛は「自分中心」なのでしょう。言うなれば「見返りを求める親切」なのでしょう。
 愛一つを無我に実行できない私だなあー、やはり、自分は凡夫だと思わずにおれません。
 自分の限界というものを教えられていくということが、教えを聞くということなのでしょうね。
 人を救うお仕事は阿弥陀様のお仕事ですね。私は阿弥陀様ではないということですね。
 そういう意味で、私は無我に教えを聞いて喜ばせて頂くことに専念したいと思っています。
 「お浄土へ往生して、仏と成らせて頂いた上は、ご縁の深い人を救う。」と親鸞聖人のお言葉にあります。

 ある先生は、「慈悲」の「慈」は
「見返りを求めない親切」と言われました。
 「慈悲」の「悲」と「悲しませない心だ」と言われました。

「み仏の光のうちに 住む身ぞと 思えば軽ろし 病める心も」
 自分の力では気付くことができない、煩悩かかえた、凡夫の私の愚かさ、危うさを知らせていただく時、 私を見抜く阿弥陀さまの智慧と慈悲の働きの中に、今、この私があることに気付かされます。

 蓮如上人れんにょしょうにんのお手紙を集めた
御文章ごぶんしょう』という大切な 御聖教おしょうぎょうがあります。

 「御文章」は、 蓮如上人れんにょしょうにん浄土真宗じょうどしんしゅうのみ教えをわかりやすく伝える為に書かれた手紙の形式の 法語ほうごで、その数は二百五十通にもなります。
 本来、「御文章」は 門徒もんと要請ようせいにこたえて書かれたもので、読み聞かせるのが主でありました。
 各家庭のお仏壇にも、必ず「御文章」が備えてあります。
 それは、日々、読んで、仏様の心に触れるために備えてあるのです。
 【法事の時に住職が読むものではありません。日々御門徒が読むためにあるのです。】
 御聖教おしょうぎょうを読むことは、 滋養じよう「心の栄養」になるそうです。
 どんなときにも、お経を読むことは大切だし、忘れたくないものです。
 毎日、一度は仏様の前で、お経を読み、お勤めしたいものです。
 また、法話を聞くだけでなく、出来れば、御聖教おしょうぎょうを読む習慣をつけたらいいのでしょうね。
 御聖教おしょうぎょう仏心ぶっしんが言葉になったものですから、 御聖教おしょうぎょうを読むことは、 仏心ぶっしんに触れるご縁ですよね。
 『「本堂や、仏壇の仏様の姿を仰ぎ見て、仏様だ。」と感じるのと同じように、 「御聖教おしょうぎょうは仏様だ。」と感じることが大切だ。』ということを言われた先生もおられました。
 「南無阿弥陀仏が 御聖教おしょうぎょうの言葉になっている。」と教えて下さいました。

 現代人が読みやすいように、本願寺出版社から『「御文章」ひらがな版-拝読のためにー』という本が出版されています。
 「御文章」を拝読していると、五百年以上も前の言葉使いですから、多少は意味が分かりにくいところもありますが、解説や言葉の説明もしてあります。

 「御文章」を拝読すると
蓮如上人れんにょしょうにんがこれを言われたのか。」という感慨が湧いてきます。
 蓮如上人れんにょしょうにんの語られる言葉に直に触れているという感動があります。
 ここに「-拝読のためにー」とありますが、声に出して読むことが大切だと思います。
 この「御文章」の中にも、自分の愚かさと阿弥陀様の救いというものが、繰り返し繰り返し語られているような気がします。
 蓮如上人れんにょしょうにんは私たちの救われることを本当にご心配して下さっているのを感じます。
 本当に御親切なお手紙だと思います。

「味気なき世にも 念々仏おもう この喜びはこの楽しみは」

 「御文章ごぶんしょう」の 「当流聖人とうりゅうしょうにん しょう
【五帖十八通】に次のように語られています。

 「当流聖人とうりゅうしょうにんの・すすめまします 安心あんじんというは、なにのようもなく・まず、わが身のあさましき つみのふかきことをばうちすてて、もろもろの 雑行雑修ぞうぎょうざっしゅのこころをさしおきて、 一心いっしん阿弥陀如来あみだにょらい 後生ごしょうたすけたまえと・ 一念いちねんにふかくたのみたてまつらんものをば、たとえば・ 十人じゅうにん十人じゅうにん百人ひゃくにん百人ひゃくにんながら・みなもらさずたすけたもうべし、これさらに・ うたごうべからざるものなり、かようによくこころえたる ひとを・ 信心しんじん行者ぎょうじゃというなり、さてこのうえには・なお わが身の 後生ごしょうのたすからんことの・うれしさをおもいいださんときは、ねてもさめても・ 南無阿弥陀仏なもあみだぶつ  南無阿弥陀仏なもあみだぶつと・とのうべきものなり、あなかしこ あなかしこ 』

 「当流聖人とうりゅうしょうにん しょう」の 大意たいい
    【現代語訳】 

 『親鸞聖人しんらんしょうにん教化きょうけでは、 浄土真宗じょうどしんしゅう信心しんじんとは、いかに自身の つみが深くとも、自力のはからいを て、 後生ごしょうをおたすけくださいと 一心いっしん阿弥陀如来あみだにょらいにおまかせすることです。
 そのものを、 十人じゅうにん十人じゅうにん百人ひゃくにん百人ひゃくにん、みなことごとく お すくいくださるのです。
 このことはまったく うたがいありません。

 このようによく心得た人を、 信心しんじん行者ぎょうじゃというのです。
 信心しんじんを得た後に、自分が 浄土じょうど往生おうじょうさせていただくうれしさを思いだすときには、寝てもさめても、 南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と 念仏ねんぶつすべきです。』
【「御文章ごぶんしょう」 「当流聖人とうりゅうしょうにん しょう
  現代語訳】

 私のような愚かなものでも、救いから漏れていない、阿弥陀様のお慈悲というものを感じさせられます。
 この中に 「つみが深くても自力のはからいを捨てて・・」という一節があります。
 「つみ」というものを軽く考えてはいけないのでしょう。
 「つみ」が分からないから、「救い」もわからないのかも知れません。

 『罪がわかれば仏がわかる 罪と仏は一つもの』
 『火の車 つくる大工は なけれども 己がつくりて 己が 乗りゆく』

  ある先生は
 「火の車をつくる だけのものを 今、持っているのだ。今、火の車に乗っているのだ。
 火の車に乗っていると思って法話を聞きなされ、それと同時に阿弥陀様に抱かれていると思って法話聞きなされ。」と言われました。

 この阿弥陀様の慈悲というものを重く尊くいただきたいものです。
 安買いしたくないものです。
 「慈悲」の「慈」は「見返りを求めない親切」といいましたが、 浄土往生じょうどおうじょうし必ず仏と成らせて頂くとは、 「見返りを求めない親切・仏の無我の慈悲の活動をさせる身にしたい。あなたを必ず仏にする」という 阿弥陀仏あみだぶつちかいが、私たちにかけられているということです。
 それが念仏のこころなのでしょう。
 つまり、「浄土往生じょうどおうじょう」とは、結構なところに往き、楽をするということではなくて、 「仏に成る」ということ、「見返りを求めない親切」という活動をさせて頂く身に成らせていただくということでしょう。 
 
ご清聴頂きまして、有り難うございました。 称名

☆☆最後に詩を紹介させて頂きます☆☆         
                             
        
 
「花には散ったあとの悲しみはない 
ただ一途に咲いた悦びだけが 
残るのだ」   
「いつも心は燃えていよう、    
消えてしまっては駄目。  
いつも瞳は澄んでいよう、  
濁ってしまっては駄目」  
【坂村 真民】   
  


ようこそ、お聴聞下さいました。有難うございました。合掌

最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え」の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。

「今ここでの救い」

 念仏ねんぶつおしえに あうものは、いのちを えて はじめて すくいに あずかるのではない。 いま くるしんでいるこの わたくしに、 阿弥陀如来あみだにょらいねがいは、 はたらきかけられている。
親鸞聖人しんらんしょうにんおおせになる。
 信心しんじん さだ まるとき 往生おうじょうまた さだまるなり
 信心しんじん いただくそのときに、たしかな すくい にあずかる。 如来にょらいは、 なやくるしんでいる わたくしを、 そのまま きとめて、 けっして てる ことがない。 本願ほんがんの はたらきに あう そのときに、 煩悩ぼんのうを かかえた わたくしが、 かならほとけになる さだまる。 くるしみ なや人生じんせいも、 如来にょらい慈悲じひあうとき、 もはや、 苦悩くのう のままではない。 阿弥陀如来あみだにょらいいだかれて 人生じんせいあゆみ、 さとりの 世界せかいみちびかれて いくことになる。 まさに いま、 ここに いたり とどいている すくい、 これが 浄土真宗じょうどしんしゅうすくいである。






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