平成30年11月 第85話

朝事*住職の法話

仏法ぶっぽう中の人生じんせい
     
 仏法ぶっぽうの中の人生ということを思いました。
 それはある先生が、「自分の力で仏法を 咀嚼そしゃくしよう、分かろう、理解しよう、つかもうとかかるから、 『仏法がわからなくなりました。』と言わなければならないのだ。
 そうではなく、仏法の物差しで仏法を聞き、歩まして頂く、仏法の中の私、仏法の中の人生ではないか。」と言われた言葉に感化されたからです。
 人間は知らず知らず、自分の力一つをあてにして生きているものなのでしょうか?
 人は日々、自分のことをあてにして、精一杯努力して生きているのですよね。
 「自分の力をあてにしないで、誰れの力をあて力に出来るというのか?!」という声が聞こえてきそうですね。
 人生は自分が努力しないようでは始まりませんが、実際は多くの支えによって「生かされている」のが事実でありましょう。



 「仏法は、我れが聞くでなし、我れが信ずるでなし、ただよび声のみぞ 響き渡れる」 
そんな法語を思い出します。
仏法は私の力で聞くのではない、仏様の力で聞いているのだ。そういうことですよね。
 日々の私は、自分中心の欲望に振り回されて、仏法を聞くような殊勝な心なんかありません。 
それが、不思議にも、こうして仏法に引き戻され、引き戻されしているのは、仏様の私を思う念力というものなのでしょう?

「私はあなた(仏様)に思われて、助かってくれと思われて、ご恩うれしや南無阿弥陀仏」
 「六字(南無阿弥陀仏)の縄に縛られて、思うがままにならぬ嬉しさ」
 仏様の働きに後押しされて、仏法を聴聞している身が、寺参りしない人のことを批判することは、仏様の手柄を自分の手柄にすることになりますから、 慎みたいものです。
 それより、こうして自分は仏法を聴聞するように仏様に計らわれていることを感謝こそすれ、仏法聞かない人のことを悪く言うのはもってのほかです。

 仏法は釈尊が説かれたものです。
親鸞聖人は仏法の教えを知らず、煩悩を抱えて迷っている私たち「凡夫」の救いというものを明らかにするためにご苦労して下さいました。
一人の落ちこぼれも出さない為に、一生ご苦労して下さったのが親鸞聖人ではなかったでしょうか。
 釈尊も、親鸞聖人も、この私のためにご苦労して下さり、教えを説いて下さったのではないでしょうか?

 親鸞聖人しんらんしょうにんのご恩を感謝する
報恩講ほうおんこうの季節となりました。
親鸞聖人のみ教えを味わい、親鸞聖人と 一味いちみの信心に住する身となることを、 親鸞聖人は一番喜んで下さるはずであります。 
浄土真宗の教えで、「他力たりき」ということを説かれますが、どういう意味でしょうか?
世間では、「自分は何もしなくてもいいから、他力に任せておけばいいんだ。」というようなことを言う場合もあります。
しかし、他力ということは、そんな安価な、横着を すすめるような言葉なのでしょうか?
「他力」ということの裏には、私の無力ということが裏にあるのではないでしょうか?
本当は、その自分の無力を知ることが難しいことなのかも知れませんね。

 こんな話を聞きました。
オリンピックのマラソンの金メダリストが、「自分は何キロくらい走った時点で、自分の力が全く無くなってしまった。
それから後は、皆さんの声援、応援に励まされて走り切ることが出来て、メダルを取ることができました。」という意味の言葉をコメントされたそうです。
 そのランナーはオリンピックまで、ずっと練習し続けてきて、決して努力してこなかったわけではありません。
 全てをオリンピックに向けて努力を重ねてきていたはずです。
 しかし、本番で、何キロメートルかを走った時点で、自分の力が無くなったのだそうです。
本人でなければそのあたりの消息は分かりません。
 そのランナーが無力になったと感じた時に、声援の応援の力を感じ、身に受けて、力を頂いて、最後まで走り切ることが出来たのだそうです。
 このメダリストの感じた無力は、最初から、「何もしなくていいんだ。」と何も努力しないでいる無力ではありませんよね。
 懸命けんめいに努力を重ねてきても、尚 自分の力が無くなるという時点があるということに、 何か不思議なものを感じます。
 人間は「自分に力がある。」と思っている時は、決して感じることが出来ない何かがあるんだということを教えられます。 

 人生でも、「落ちぶれて、袖に涙のかかるとき、人の情けの薄衣」という歌のように、人生でも困った時に助けてもらったことは決して忘れられないものですよね。
また「自分はどうしても煩悩の無くならない者だ。情けないものだ。どうすればいいのかな?」と途方に暮れる時に、自分の無力を知れば知るほど、 仏様の救いというものが尊く有難く感じられるものではないでしょうか?
桐渓順忍 和上は、次のように言われています。
「喜びが深くなるというのは、私に、どんな 姿でも、力が無かったと、気づかせて頂くところに、喜びがある。
 そして、悪さが、分からして頂く。
だから、悪さが分かるということは、ある意味からいうと、我々が、お浄土参りの出来る 因縁いんねんにもなれる。
人間が育てられることです。
 念仏を称えますれど、喜びが起こりません。それは、あんたが聞きようが足らんじゃないか。という答えと、もう一つは、 凡夫ぼんぶだから仕方ないんだ、というのがあります。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 人間生活で、一番困ったときでも、「おかげさま」という、喜びのできる、人間生活が、一番幸せではないか。
 どうしても、どうしても救われないものが、救われるとは、喜ばなくちゃならないときに、喜べないものが、救われる。
 急いでも、お浄土へ参りたい心の、起こらなくちゃならんことに、起こさない、私が、お浄土参りに、間違いない。

 だから、 才市同行さいちどうぎょうが言ったといわれる、 「これ、アミダ、助けたいなら、助けさそう。 つみはわたさぬ、よろこびのたね。」ということは、 罪を感じるときに、かかる者を、お助けと、お助けが、味わえるんじゃないか。
 喜びの種という、言葉の うらには、 逆境ぎゃっきょうのどん底におっても、喜べる世界があるぞ、ということです。
そういうことが、 念仏ねんぶつの、「おいわれ」だと思います。」
 【「桐渓和上最期の法話」教育新潮社 】
 人生は自分の思う通りになれば、喜び、自分の思い通りにならなければ、腹が立ちます。
 喜んでいるときは、喜びだけになっていて、怒っているときは、怒りしかありません。
 喜んだり怒ったり、そんな自分の都合を中心にして、一日が流れていきます。
 そういう意味で、全く私の人生は「煩悩の日暮し」なのかも知れません。


 「仏」「法」「僧」の三つを 三宝さんぽうと言いまして、仏様に帰依し、仏様の教えに帰依し、仏様の教えを聞く仲間に帰依する、 「帰依三宝きえさんぽう」をして、 仏弟子となるのが「帰敬式ききょうしき」という 儀式ぎしきですよね。
 「仏様に 帰依きえする」とは 「釈尊しゃくそんの言われることが本当のことだ。 本当のことを言ってくれる方は釈尊だけだ。」という 仏陀ぶっだに対する絶対の信頼の 大切さを教えているわけですよね。 
 初心にかえって 帰依三宝きえさんぽうをして、 仏法聴聞ぶっぽうちょうもんはげみたいものです。
 話は戻りますが、実際問題として、自分が無力になる、自分の無力を知るということは、中々難しい事ですよね。
 最初から、仏法に対して、何も努力をしないで、無力になるということも何かおかしい感じがします。
 それに、この厳しい「無常」を思うときに、誰になんと言われようと聞かずにはおれない一面も出てくることもあるのではないでしょうか?
 仏法を聞くことは、派手さはなくて、ランナーが日頃トレーニングをするように、ある意味で地道なことのような気がします。
 しかし、幸いなことに、私には、共に仏法を聴聞している 法友ほうゆうがいます。
 広島は昔から、仏法ぶっぽうを,熱心に 聴聞ちょうもんする人がおられる地方ですよね。
 土徳どとくという言葉がありますね。 安芸門徒あきもんと土徳どとくというものもあります。
 私も熱心に仏法を求め、真剣に聞こうとされているご門徒の無言の姿に導かれ、又仏法の先生方の後ろ姿に導かれ今まで来たように思います。

 先日も九十代の方が仏法を聴聞するために、ある法話会に、参って来ておられました。
 その方が話されるのに、「私は幼い頃に親を亡くし、兄に育てられました。成人して、仕事も地域の世話も一生懸命してきました。
 しかし、亡くなる時には、そういうことを全て、置いて行かなければなりません。
【死ぬ時には 名誉も何もかも全て置いて行かなければいけない、という意味】
 浄土真宗の教えでは 浄土じょうどということを説きます。
 ある浄土真宗の本を読みましたが、その本には、『お浄土があってよかった。』とみんな思って  往生おうじょうされていることが書かれていました。
 しかし、私は中々そのように思われません。
 息子の命日には、お寺の住職さんに夜にお参りしてもらっています。孫がお経に会ってくれるのでうれしい。」と言われていました。
 「息子の命日」と言われることは、息子さんを先立たさせておられるということになります。
 そういうご縁もあったからか、自分自身が高齢になられたからか、  浄土往生じょうどおうじょうということを、真剣にわが身の問題とされて、仏法聴聞をされているのでした。
 私はその方に言いました。「おじいさんは、真剣に仏法聴聞しておられます。私も本当は、そういう気持ちで 真剣に仏法聴聞ぶっぽうちょうもんをしないといけないのに、中々そうなれません。 おじいさんは私の聴聞の手本てほんです。」と言いました。

 その方の言葉から、色々と刺激しげきを受けましたし、いいことを聞かしてもらったと思いました。
 その方は、「人生は最後には、名誉等も含めて、全てを置いて旅立っていかなければならない。」ということに真に気づかれたのですね。
 その裏には、息子さんを先立たれた厳しい逆縁のご縁や、九十代の高齢になられたという、生々しい人生の事実があるのでしょうね。
 『他の信者の方は、お浄土を喜んでおられるみたいなのに、私は、 「浄土じょうどがあってよかった。」というふうに中々思えないんです。』という言葉は、 正直に言って、「私もそうなんです。」と言いたいところでした。
 おじいさんの言葉は、言いかえたら、「死に対しての覚悟が中々できない。」という意味も含まれているのではないかと感じました。
 それは私も同じ気持ちでした。
 そんな時に、たまたま 「功徳宝海くどくほうかい」と題する短い一文を読みました。

 「念仏することなしに、念仏に近づく別の道はない。
わかろうとわかるまいと、まず念仏を称えることである。
念仏しておれば、念仏の尊さが知られてくる。念仏しておれば、仏の声が聞こえてきて、わが身やこころをたのむような間違いが知らされてくる。
この世の終わりに際して、うろたえない覚悟を定めたいと願うのなどは、念仏しながらもわが身に期待をかけているためである。
念仏する人には 一切いっさい志願しがんが満たされているのであるから、いまさらに、散るこころ乱れるこころを心配する必要もない。
念仏することによって、わがこころの足りないところへ何かよいものをつけ加えるのではなく、むしろわが はからいのこころ が、念仏の中で満足して つぶれていくのである。
南無阿弥陀仏というほうが、わが身の上に あらわれると、ふかふかであった この自身の存在が、ぐっと重みを持つ。
わが身を痛みたもう 大悲だいひのおこころに、身をふるわせて念仏のご恩なるかなとほめたたえる形を、 正信しょうしんと呼び 信心しんじんと名づけるのである。

念仏によって身が重くなるとは逆に、信心によって、生活は重苦しさを脱して軽くなる。
生活が軽くならないのは、自分の心にふと浮かんだものを、信心であるとこしらえて、その信心と念仏とを結びつけるからで、そこには念仏の快い香りもなく、 ただ固執こしゅうくさみばかりがただようことになる」という一文に出会いました。
※「感応道交 うなずきあう世界 川瀬和敬仏法随筆集」より

 まさに「死に対して覚悟ができない。」という私の心の間違いを 指摘してきされた気がしました。知らされて、よかったと思いました。


 「極速円満ごくそくえんまん」という言葉が 親鸞聖人の著述の中にあります。
極速円満ごくそくえんまん
下記の如くの意味があります。
きわめて すみやかに 往生おうじょう仏因ぶついんが満足する。』
『極めて速やかに往生の因が満足する。 名号大行みょうごうだいぎょうの働きが勝れていることを示す。』 

  
大行だいぎようとはすなはち 無碍光如来むげこうにょらいの名を しょうするなり。
この ぎょうはすなはちこれもろもろの 善法ぜんぽうっし、もろもろの 徳本とくほんせり。
極速円満ごくそくんまんす、 真如一実しんにょいちじつ功徳宝海くどくほうかいなり。
ゆゑに 大行だいぎょうと名づく。」
【「教行信証」】【親鸞聖人】


 つまり、「聞くだけで、 往生おうじょうの因を満足するほどの 名号みょうごうの勝れた働き。」を表している言葉です。

 人間ですから、死ぬことが嬉しいわけではないでしょう。
 親しい人たちと別れていくのは、名残惜しい事ですよね。本当に。
また、死に際にどんな姿を見せることになるか分かりません。

しかし、大切なことは、今、仏様の「極速円満」の働きに出会っていることに目覚めることでしょう。
臨終りんじゅうの姿を問うことなく、今、 「極速円満ごくそくえんまん」の働きに遇わせて頂いていることに目覚めることが大切なのではないでしょうか?
 問題は、「今」です。
『極めて速やかに往生の仏因が満足する。』
『極めて速やかに往生の因が満足する。名号大行の働きが勝れていることを示す。』

こういう仏様の働きに、今、お念仏の教えを通して、出会っていることを 「極速円満ごくそくえんまん」と味わう事、 つまり「極めて、速やかに、円満する」その阿弥陀様の働きに、感謝することが一番大切なことでありましょう。称名
 
    
ご清聴頂きまして、有り難うございました。 称名

☆☆最後に詩を紹介させて頂きます☆☆         
                             
 
人生とは真実一路の道を
行く出会いのたびである 
またたく星よ   
わたしの旅路を守らせたまえ    
  
【坂村 真民】  
  


ようこそ、お聴聞下さいました。有難うございました。合掌

最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え」の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。

「今ここでの救い」

 念仏ねんぶつおしえに あうものは、いのちを えて はじめて すくいに あずかるのではない。 いま くるしんでいるこの わたくしに、 阿弥陀如来あみだにょらいねがいは、 はたらきかけられている。
親鸞聖人しんらんしょうにんおおせになる。
 信心しんじん さだ まるとき 往生おうじょうまた さだまるなり
 信心しんじん いただくそのときに、たしかな すくい にあずかる。 如来にょらいは、 なやくるしんでいる わたくしを、 そのまま きとめて、 けっして てる ことがない。 本願ほんがんの はたらきに あう そのときに、 煩悩ぼんのうを かかえた わたくしが、 かならほとけになる さだまる。 くるしみ なや人生じんせいも、 如来にょらい慈悲じひあうとき、 もはや、 苦悩くのう のままではない。 阿弥陀如来あみだにょらいいだかれて 人生じんせいあゆみ、 さとりの 世界せかいみちびかれて いくことになる。 まさに いま、 ここに いたり とどいている すくい、 これが 浄土真宗じょうどしんしゅうすくいである。






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