平成30年9月 第83話

朝事*住職の法話

星月夜ほしづきよ
     
 「人生の 重きときあり 星月夜ほしづきよ」 
ある家にお参りすると、
『人生の 重きときあり 星月夜 』汀子
という掛け軸が床の間に掛けてありました。
      【稲畑汀子 汀子第二句集】
以前から床の間に掛けてあり、意味を説明して頂いたこともありましたが、この度、再度、説明して頂きました。
『これは叔母が書いたもので、「人生が重いときがある。そんな時でも、空を見上げると星や月が眺められる。」という意味の言葉です。』 という説明でした。
 その掛け軸は、その奥さんの叔母さんが書かれた書で、個展を開くほどの力量を持った方でした。
 その叔母もお亡くなりになられたそうです。世代も変わりました。
その奥さんが言われるのに、「書の仮名文字というものは中々力強く書けないもので、仮名文字が力強く書けるのは書の力量がある人だ。」ということだそうです。
その書の仮名文字は力強く立派なものでした。それでいて力みが感じられなくて自然な感じでした。
 人間は苦しいときは、苦しみにとらわれて落ち込んでしまいますが、どんな時でも、見上げさえすれば、そこには星月夜があるのだと、改めて教えられた気がしました。
何度も口ずさみながら、いつも私と共におられる仏さまのことを、味わわせて頂いた次第です。
 奥さんに深くお礼を言って帰宅しました。奥さんを通して仏様が教えて下さった気がしたのです。 

 私は、日々煩悩ぼんのうさいなまれて、振り回されて、後悔したり、愚痴を言ってみたりはしますが、 中々、「空を見上げる」ということにはならないなあーと気づかされました。  
 そして、「そうなんだ。空を見上げれば、仏様はいつでも・どこでも・誰にでも、同じように働いておられるのだ。」  
「私は自分の悩みや煩悩ばっかり見て悩み続け、仏様を仰ぐことを忘れていたなあー。」と教えられた気がしました。
 というのも、あまりにお粗末な煩悩の繰り返しが私の日々だからです。 
昔聞いたロックの歌詞に「俺にはコミック漫画なんか要らない、俺にはコミック漫画なんか要らない、俺の暮らしは漫画だから、、、」というような歌詞がありました。
 そんな歌をたまに思い出すことがあるのですが、そんな情けない時こそ、「人生の 重きときあり 星月夜」仏様の空を見上げようと思わされました。
 人間は急には善い事が出来ないところもありますが、何しても構わないという態度はおかしいですね。
 先日、お盆に、甥が赤ちゃんを連れて夫婦で尋ねてくれ、妹たち、姪たちと一緒に、本堂で、母の誕生会をしました。 
 甥が赤ちゃんの頃を知っている私は、甥が赤ちゃんを抱いている姿に月日の流れを感じないではおれませんでした。
 父が生きていれば87歳くらいだけれど、生きていれば、どんなにか喜ぶだろうと思ったりしました。 
 赤ちゃんは他県から自家用車に乗せられて来たらしいけれど、赤ちゃんにとっては随分長旅だったでしょうね。
 赤ちゃんは一生懸命に私たちを見ていました。その瞳は驚きに満ちている感じがしました。
 赤ちゃんは 無垢むくですね。
 なんのフィルターもなく、ものをそのまま見ているみたいな 純粋無垢じゅんすいむくなところが素晴らしいと感じました。


 何年も生きているうちに人間は成長するわけですが、いつまでも子供のままではおかしいですが、しかし、大人になるにつれ、 驚くことを忘れ、無垢むくさを うしなうのは悲しいことですね。
 人間は物を学び 知識ちしきを得ます。
 その道に 精進しょうじんするために、 膨大ぼうだい専門知識せんもんちしき習得しゅうとくしなければなりませんね。
 先日も、ある所に行くと、仕事に関係した、 関連書籍かんれんしょせき本棚ほんだなに沢山置いてあって、「こんなに勉強しているのか。偉いものだなあー。」と感心させられました。
 だから一面、仕事をする場合は、その道の専門知識の勉強は避けられないことのようです。
 しかし、人間は 知識ちしき沢山たくさん得れば得るほど、ものが純粋無垢に見れなくなってしまうところがあるのかも知れません。
 仏教で「無心」ということを説きます。
 「無心」とは、私の自分の心とは違うものですよね。 
 仏様の「限りない大空のような智慧」「限りない大海のような慈悲」それは「無心」であり、「私の心」とは違うものではないでしょうか。

 その仏様の「無心」のこころを聞きながら、中々素直に仏様のこころが頂けないのは何故でしょうか?
 もう亡くなられましたが、ある門徒のおばあさんが生前次のようなことを言われていました。
 「全てのものに 仏様のお月様のような慈悲のこころは平等に注がれているのだけれど   ふたある身には月は宿らないんだ。」と言われました。
  「ふたというものがあるから、仏様の慈悲のこころが私の心に宿らないのだ。」と言われました。

親鸞聖人しんらんしょうにんの書かれた 「和讃わさん」に
願力無窮がんりきむぐうにましませば 罪業深重ざいごうじんじゅうも重からず
 仏智無辺ぶっちむへんにましませば  散乱放逸さんらんほういつも捨てられず」
と説かれています。
願力無窮がんりきむぐう」→「願力は限りない。」
仏智無辺ぶっちむへん」→「仏智は無辺である。」
仏様の慈悲のことを
無盦むがい大悲だいひ
と言います。
ふたの無い大悲ということですね。
「限りない御親切」ということですね。
 私は、自分では気づかないうちに、仏様の限りない御親切なお慈悲に ふたをして、仏様の救いの働きを邪魔しているのでしょうか?
 「御聖教おしょうぎょう」に次のような言葉があります。 
 
『たとへば千歳の闇室に、光もししばらく至れば、すなはち明朗なるがごとし。
闇、あに室にあること千歳にして去らじといふことを得んや。』
                (『教行信証』親鸞聖人)

「たとえば千年もの間、一度も光の入ったことのない闇に閉ざされた部屋があったとします。
この部屋に少しでも光が入れば、たちまちに闇は破られ明るくなります。
千年もの間、闇に閉ざされていたからといって、その暗闇が光を遮ることはありません。
同じように、迷いの闇は真実の光によって、たちまちに破られるのです。 」
「たとえば千年の間光が差さなかった部屋に、一瞬光が差したなら、即座に明るくなるように。
千年居座ったからといって、闇が出ていかないということがどうしてあるだろうか?
千年間ずっと真っ暗闇だからといって、それが明るくなるのは千年は必要ない。一瞬です。 
光が差すことで、心の闇が破られることによって、色々なものが見えてくるのです。
長い闇・暗さ。だが、その闇が破られるのは一瞬。
光に出遇ったら闇は居座らない。
大事なのは闇を破ろうと頑張るより、光に出遇うことかな?」【意訳】

*悪業を行なう無明煩悩→「闇」
*悪業を重ねる迷いの凡夫→「室」
*その凡夫が悪業を犯し続けてきた時間の長さ→「千歳」
*念仏→「光」
に例えています。
「凡夫の悪業」と「念仏」とを比べますと、世間の常識では、念仏よりも、長い間犯し続けてきた多くの悪業の力の方が強いように思われます。
しかし、両者の行いを比べますと、虚仮の心によって生じる悪業よりも、阿弥陀仏の真実の心によって生ぜしめられる念仏の方が強い力を持っていると言われるのですね。
地獄に引く悪業の力よりも、浄土へと引く念仏の力の方が、比較にならないほど強いと言われるのです。


蓮如上人の言葉に次のような言葉があります。
「ひとたび仏法を
たしなみそうろう人は、
おおようなれども
おどろきやすきなり。」
 (『蓮如上人御一代記聞書』)
 仏法に遇った人は普段はおおらかでも、なにかにつけ感動しやすいと言われています。
 
しかし、今、私が驚かねばならないのは、他人の姿ではありません。
自分自身の姿に対してです。
私たちが阿弥陀さまに遇わせて頂くということは、ありのままの自分に遇うことです。
阿弥陀様の光に遇わせて頂くことによって、自分の姿に驚くのです。
「自己を知る」ということは大変なことです。
そして、その「自分の姿に驚く」ことは更に大変なことです。
み教えを聞いても自分のこととして聞かず、他人事として聞いてしまう私がいます。
阿弥陀様の声は、この私に「自分の姿を見なさい」と喚んで下さる声であります。

 ある先生は次のように説かれました。 
 「私たちは答をすでに握りしめて、心を ふさいでいます。
 教えが耳に入らなくなる。しかし、そんな私に、心の闇に光が入る。」と言われています。
 中々鋭い 指摘してきだと思いました。 
ここに、「答をすでに握りしめて、心を ふさいでいます。」とあります。
 これが、「知識ちしき」というものの性格かなと思います。 
 もちろん、知識の勉強というものの大切さもあると思いますし、仏縁というものは千差万別、人それぞれでしょう。 
 しかし、自分のことをふりかえってみたら、すでに答えというものを握りしめていた時は、喜びというものもなかったような気がします。 
 それに自分で一生懸命に握りしめているのは、握りしめていないと失われそうな気がするからかも知れません。
 
「恩」ということを説きます。
「ご恩報謝」ともいいます。
「恩」という字は「原因の因に心」と書きます。
「因」という字は、「広い敷物の上に人が大の字に寝ている」そういうことを表しているそうです。
「それだけの大きな働きを受けている。頂いている。」ということでしょう。
 だから、うち任せて、大の字に寝ていられるのでしょうね。
 もう一度言います。
「恩」という字は「原因の因に心」と書きます。
「因」という字は、「広い敷物の上に人が大の字に寝ている」そういうことを表しているそうです。

この話はよくよく味わいますと、とても有難い気がします。
「広い敷物の上に人が大の字に寝ている」ということは、それだけの「原因」を既に頂いているからですね。  
ここでは、それは物質的な意味ではありません。お金を沢山いただいたから、ゆったりできるという意味ではありません。
 宗教的な真実と言えばいいのでしょうか。
 真宗で「お育て」という言葉があります。
 自分で過去には一生懸命に仏法の知識を獲得しようと勉強したこともありました。 
しかし、そういうことも、自分がしているように思っていたけれど、仏様にさせられていたのだった。
全て「お育て」だったんだ。 
 これからも仏様に、色々な先生に、色々な出来事やご縁にひたすら育てられるだけなのでしょうか?
 心に痛みを感じる「お育て」も結構多いことですけれどね、、。それだから他人の痛みもわかるようになるのでしょう。
そして、苦悩がお念仏を味わえるご縁となっていくのでしょうか? 称名  
 
ご清聴頂きまして、有り難うございました。 称名

最後に 「人生のほほえみ」【中学生はがき通信】の言葉から、一部紹介させて頂きます。    
【『人生のほほえみ』波北 彰真 著 本願寺出版社より】 
                             
 
 
「ことば」
なにげになく言った
ひとこと が  
人の心を   
傷つけることが ある  
そのことに 気がつけば   
あやまることも できるが  
私には 気づかぬことが  
たくさんあるだろうな  
ゴメンナサイ  
  


ようこそ、お聴聞下さいました。有難うございました。合掌

最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え」の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。

「今ここでの救い」

 念仏ねんぶつおしえに あうものは、いのちを えて はじめて すくいに あずかるのではない。 いま くるしんでいるこの わたくしに、 阿弥陀如来あみだにょらいねがいは、 はたらきかけられている。
親鸞聖人しんらんしょうにんおおせになる。
 信心しんじん さだ まるとき 往生おうじょうまた さだまるなり
 信心しんじん いただくそのときに、たしかな すくい にあずかる。 如来にょらいは、 なやくるしんでいる わたくしを、 そのまま きとめて、 けっして てる ことがない。 本願ほんがんの はたらきに あう そのときに、 煩悩ぼんのうを かかえた わたくしが、 かならほとけになる さだまる。 くるしみ なや人生じんせいも、 如来にょらい慈悲じひあうとき、 もはや、 苦悩くのう のままではない。 阿弥陀如来あみだにょらいいだかれて 人生じんせいあゆみ、 さとりの 世界せかいみちびかれて いくことになる。 まさに いま、 ここに いたり とどいている すくい、 これが 浄土真宗じょうどしんしゅうすくいである。






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