平成30年8月 第82話

朝事*住職の法話

「お念仏ねんぶつに相談」
     
 この度は広島は未曾有みぞうの災害に見舞われ、各地で酷い被害を被っています。 
被災者の方々には心からお見舞い申し上げる次第です。 
 
 各地で色々なボランティア活動されている報道を見聞きして、ただただ頭が下がる思いです。 
一寸先に、何が起こるか分からない。本当にそんな気持ちがしますね。 
 断水の話を聞くと、水が普通に使えるということの有難さを教えられます。停電の話を聞くと、電気が使えることの有難さを教えられます。
交通機関の不通を聞くと、交通機関の有難さを教えられます。家屋が被害を受けられた方の話を聞くと、こうして自分の家で暮らせる有難さを教えられます。
 「もったいないね。感謝しないといけないね。」そんな会話が自然に起こりました。
 普通に仏法聴聞できる幸せというものをしみじみ思わされます。
 
 中国、北宋中期の政治家・学者に司馬光【しばこう】という方がおられます。司馬温公【しばおんこう】とも言います。

 司馬温公しばおんこうことばに、
「金を積みて以て子孫に のこすも、子孫 いまだ必ずしも く守らず、書を積みて以て子孫に のこすも、子孫 いまだ必ずしも まず、 かず、 陰徳いんとく冥々めいめいうちに積みて、以て子孫 長久ちょうきゅうはかりごとさんには」
という言葉があります。
 災害地でのボランティア活動の姿に「陰徳」というものを感じさせられた次第です。 
 

 お金というものはあれば困るものではありません。とても便利なものであります。
 しかし、世間には、親の財産があるために、それをあてにして、 放蕩ほうとうする親不孝者がいます。
 先祖が苦労して可愛い子孫のために財産を残しても、それがかえって子孫を あやまらせる場合もあります。 
 司馬温公しばおんこうは、真実に子孫を愛して永遠に幸福にする為には、 いわゆる有形ゆうけいな財産を残すより、無形の 「陰徳」を残すことが大事ではないか!と問題提起されているわけです。
 確かに有形ゆうけいなものは無くなることがありますが、 無形のものは無くなることがありません。
 だから壊れない幸福を子孫に残したいと願うのなら、「陰徳」というものが何より大切な遺産だと説いているわけでしょう。 
 親鸞聖人しんらんしょうにんお書きになった 「正信偈しょうしんげ」の中に次のような言葉があります。
煩悩ぼんのう に眼(まなこ)さえられて  摂取せっしゅの光明見ざれども 大悲だいひものうきことなくて  つねにわが身をてらすなり」
と詠われています。
 その意味は、「煩悩に眼がさえられているから、み仏を見ることは出来ませんが、み仏は常に私を摂取したもう」という意味であります。
仏様は姿は見えない。つまり「無形」なのは「仏様」も「無形」ではないでしょうか?
 又、親の子に対する愛情は無形の財産でありましょう。
世間で色々と批判されたり貶されたりしても、親が自分を信じていてくれるということがどれだけ大きな支えになるかわかりません。
 もちろん人間は「独りよがり」になってはいけませんよね。
「聞く耳」を持つことが必要なことは言うまでもありません。謙虚さが大切なことは言うまでもありませんよね。

 私の好きな歌手・作詞家は「私の作った詞を読んで傷つく人がいないように気をつけて作詞をしている。」と、作詞する時の心掛けを言われていましたが、 少しでも見習いたいものです。
「なんか、嫌な感じがする。この人とは距離を置いた方がいいな」と感じたら、距離を置き、自分を守ることも大切なんだそうです。
しかし、他人から、何か言われるのも、自分の過去に原因がある場合もあるのなら、『なんで私だけが言われないといけないのや!』 『絶対負けたくない』『負けたままでいたくない!』と言い張ると、新たな争いの種まきが続き、先でも腐れ縁が出来てしまうだけなのかも知れませんね。
 人間はやはり「懺悔」という気持ちも大切で必要なことなのかも知れません。
 しかし人間は、中々、泣き寝入りは出来ない。
負け切りのままでいることはできない、「仕返ししたい、やり返したい、負けたくない」という性根の私ですが、何が一番賢い態度なのか?
 仏法にご縁を頂いているのなら、「負け切りでたまるか!何で私が言われないといけないのか?」という自我ばかり主張して、 新たな悪い種まきをして、腐れ縁が先々続いていくことが賢いことなのか?阿呆なことなのか?
 退一歩して考えることも必要なのかも知れません。

 ある先徳は「泣き寝入りがいいんだ。」と言われたとか。見た目は泣き寝入りでいい。ということですね。
いつまでも新たな争いの種をまきづけるより、「泣き寝入り」の方がよっぽどましなんですよね。
 しかし、何処までも自我を突っ張ろうとする、そういう私を阿弥陀様は、どこまでも可愛がって下さっているのでしょうか?恥ずかしい勿体ないことです。
 蓮は泥の中に咲きますよね。煩悩の泥のあるところ、み仏の救わずにおれない大悲の活動があるのでしょう。
 「出会い」これが人生で一番大事なことかも知れません。善き出会いですね。
お釈迦様も、仏法の友を持つことの重要性を言われています。
「お念仏を喜ぶ者は、私のよき親友だ。」とまでお釈迦さまは言われています。
 仏様が親が師匠がわかってくれていればいいじゃないか?そんな気がします。

 仏法で「あるがままに見る」と教えていますが、私達はその人の目の前の言動や態度のみを見て、その人の「あるがまま」だと思いがちですが、 仏法で説く「あるがままを見る」とは、そういうことではないそうですね。
 その人の過去からの色々なこと全てを含めてその人を見ることが、
「あるがままに見る」ということなんだそうですね。
 中々そうは思えませんが、道理は道理でしょうねえ。
 又、いくらその人の言動がおかしくても、「この人はこんな態度をとっている。この人は本当は信心なんかないんだ。」と思ってはいけないそうですね。
 仏様が見られる世界と、凡夫である私が見る世界は、やはり天地の差があるみたいですね、恥ずかしい限りです。
 僧侶の先輩方が言われていました。「日頃から自分の態度に気をつけないと、他人が法話を信用して聞いてくれないよ。」と。
「あの人は口ではいいことばかり言っているけれど、実際では言ってることとやってることが全然違うじゃないか。」ということになれば、 誰れがその人の話を信用するでしょうか?
 つまり、他人に言うことを聞いてもらうためには、先ず他人に信用されることが大切なのでしょう。
 また、口だけで法話するのではなくて、 「渾身説法こんしんせっぽう」と言って、態度で無言で説法する場合もあるそうですね。
 また、「信者の顔が説法している」ということがあるそうです。
「こんにちわ」という信者の挨拶が説法になっている場合もあるそうですね。
 いたずらに、他人に「これも教えてやろう。これも教えてやろう。」と意図的に教えてやろうとしなくてもいいということも言えましょう。
 本当にわかったら、そのこと自体が他人に自然に伝わっているのだとか。真にわかることが一番大事だし、急務ということですね。
 有難い御門徒の信者が無我に話している姿が人に信を得させる場合もあるそうですね。
 年齢や経験に関係なく、その人のハートがどれくらいピュアーかということをつい考えてしまいます。
 色々考えていくと、結局は、やはり自分は凡夫だとおもわずにおれませんね。情けないものです。
 世の中、色々ありますが、もっとお互いを認め合い、一人一人の尊厳を認める生き方ができないものでしょうか。
 阿弥陀経の中に「青い花には青い光、黄色い花には黄色い光、赤い花には赤い光、白い花には白い光」という言葉があります。
 他人の真似や「カーボンコピー」になるのではなく、自分の色で輝きたいものですね。
 ついつい人真似になってしまい、恥ずかしい限りですけれどね。
 親子でも自分の子供だと思うから、自分の言う事聞かないと、腹が立ってくるのでしょう。
 自分の子供でも一人の人間です。自分の物ではないはずです。
相手を一人の人間と見ることが欠けているのでしょう。
 結局、人間は、お互いに足を引っ張り合い、周りが皆敵のような環境にいれば、不幸な気持ちになりますね。
とにかく、人生の中での人間関係は、人の幸せと直結する、重要な要素ですね。

もちろん他人に厳しく言われることがとても大切で、その人を大きく育てることがあることはわかります。
 しかし、人間には 煩悩ぼんのうというものがあります。
 親鸞聖人しんらんしょうにんは 「人間は死ぬまで煩悩は無くならない。」と言われています。
 この言葉をどのように受け止め理解するかは人それぞれでしょうけれど、自分勝手に理解しては誤るようなきわどい言葉ではあります。
 しかし、どんな立派な人でも煩悩があり、 貪欲とんよく 瞋恚しんに【怒り】 愚痴ぐちの三つを仏法では 「三毒さんどく煩悩ぼんのう」言います。
 つまり「毒」だと言われているのですね。
「毒」は自分が他人に吐いてもいけないし、他人から自分が受けても、とても嫌なものですよね。
「毒」ということなんだということに注意したいものだと思うのですね。
平気で毒を他人にまき散らして気づかないでいるのですね。申し訳ないことです。


 つまり、一番の問題は「自分が他人に対して毒のある言動をしていないか?」ということです。
 阿弥陀様の救いの誓いの中に 「若不生者不取正覚にゃくふしょうじゃふしゅしょうがく」という言葉があります。
「もしあなたが救われなかったら、私は仏と呼ばれる資格がない。」というお心であります。
若不生者不取正覚にゃくふしょうじゃふしゅしょうがく」 「若不生者不取正覚にゃくふしょうじゃふしゅしょうがく
いつでも、どこでも、誰にでも、そのように呼びかけて下さっているのが阿弥陀様の働きであります。

 どんなに落ち込んでいても、その落ち込んでいる私に
 「若不生者不取正覚にゃくふしょうじゃふしゅしょうがく」  「もしあなたが救われなかったら、私は仏と呼ばれる資格がない。」
と呼びかけて下さっている声が「南無阿弥陀仏」のお心です。
 人間は苦しんでいる時は自分の苦しみばかりに心が向いて、心が閉じてしまいがちです。
 しかし、そんな私に「仏がついているよ。いつも私に相談しなさい。」と仏様は私に呼びかけて下さっているような気がします。
 妙好人みょうこうにん源佐げんざさんの言葉に次のようなものがあります。
「困った時にゃお念仏ねんぶつに相談しなされや」【源佐】
困った時にこそ、味わいたい言葉ですね。 楽しみ苦しみを超えた安らぎというものに仏様のみ教えを通して味わいたいものです。

 
ご清聴頂きまして、有り難うございました。 称名

最後に 「人生のほほえみ」【中学生はがき通信】の言葉から、一部紹介させて頂きます。    
【『人生のほほえみ』波北 彰真 著 本願寺出版社より】 
                             
 
 
「親切」
人に親切にすることが  
できる人は   
えらい人だと思う  
小さな 小さな親切だって   
それを するには  
勇気がなければ  
できないんだ   
  


ようこそ、お聴聞下さいました。有難うございました。合掌

最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え」の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。

「今ここでの救い」

 念仏ねんぶつおしえに あうものは、いのちを えて はじめて すくいに あずかるのではない。 いま くるしんでいるこの わたくしに、 阿弥陀如来あみだにょらいねがいは、 はたらきかけられている。
親鸞聖人しんらんしょうにんおおせになる。
 信心しんじん さだ まるとき 往生おうじょうまた さだまるなり
 信心しんじん いただくそのときに、たしかな すくい にあずかる。 如来にょらいは、 なやくるしんでいる わたくしを、 そのまま きとめて、 けっして てる ことがない。 本願ほんがんの はたらきに あう そのときに、 煩悩ぼんのうを かかえた わたくしが、 かならほとけになる さだまる。 くるしみ なや人生じんせいも、 如来にょらい慈悲じひあうとき、 もはや、 苦悩くのう のままではない。 阿弥陀如来あみだにょらいいだかれて 人生じんせいあゆみ、 さとりの 世界せかいみちびかれて いくことになる。 まさに いま、 ここに いたり とどいている すくい、 これが 浄土真宗じょうどしんしゅうすくいである。






トップページへ   朝事の案内   書庫を見る