平成30年7月 第81話

朝事*住職の法話

「ハートの世界」
     
 七月になりました。最近は地震など、日本各地に災害が多く、娑婆世界の苦しさを思わされます。 
 ある方が、「お寺には、お堂というもの、スペースというものがある。大事な意味あるところである。」というような意味のことを講演で言われていました。
 僧侶を対象の講演ではあったのですか、一般の会社の方が言われましたので、ある意味で、特に印象深く聞いたのでした。
 何でもないこと、当たり前のことのようですが、この「空間」の中で、何かを感じることが出来るスペースなのですね。
 「仏様のこころ」である「大慈悲・大智恵」に会う場所が、このお寺の「お堂」「本堂」「空間」「スペース」というところなのではないでしょうか?
もちろん、寺の本堂でなくても、いつでも、どこでも、仏様は働いておられるのではありますが、、。
「雨の音 聞く人も無き 空き家かな」
「雨の音 聞く人ありて 雨の音」

 いくら仏様の「はたらき」というものがありましても、私自身が、そのことに気づかなければ無いのと同じということですね。
 何を聞くのか感じるのか?
「仏様のハートを聞く」ということではないでしょうか?
 「仏法の勉強する」ということは、人間として生まれ、とても大切な事だと思います。
共に、「仏様の大悲心」を学ばさせて頂きましょう。
私たちの先祖の方が、「お念仏のみ教えを聞く道場が欲しい。」という願いから、「本堂」は建てられたのではないでしょうか?
 原点がすっかり忘れられた感じですが、今一度、先祖の熱い願いに思いを寄せてみたいものです。
 

 「仏様のこころ」とは、「大慈悲」であると言われています。
「慈悲」と「愛」は違うようです。愛するほど憎しみも大きくなっていくことがあります。
自分に都合の悪いことが起これば、愛は憎しみに変わっていきます。  
 「愛」の根底に、「自己中心」という眼鏡をかけて、ものごとをはかっているからです。  
「慈悲」とは、自己中心の眼鏡を完全に取り除いた智恵の働きを意味するのです。 
 「自他不二」「一如」「平等」ということです。
「自己否定」とは「相手の身になること」です。
この「自己中心」が自分を乱し、世の中を乱しているのです。
 しかし、道理・理屈は分かっても、実際問題となると、「わが身が可愛い」という思いから離れられない私ではないでしょうか。
 ある方は、口癖のように  「『自分が凡夫ぼんぶだ。』ということを知らせてもらうのが 真宗しんしゅうおしえです。」と言われます。
 いつ聞いても、とても味わい深い言葉だと思います。

真宗では各家庭に「仏壇ぶつだん」があります。 
 恵まれている「仏縁ぶつえん」ですね。  
 浄土真宗の教えの内容が、そのまま「仏壇」の内容となっています。
浄土真宗の「ご本尊」は「南無阿弥陀仏」「阿弥陀如来」「名号」です。
 阿弥陀如来は「名号」を形の上で表し説明したものです。
真宗の聖典もすべて文字で「南無阿弥陀仏」を説明したものです。
「南無阿弥陀仏の六字が聖典の文字になっている」と言われた先徳があります。
お寺のご本尊も、家庭のご本尊も、御木像でも御絵像でも「南無阿弥陀仏の名号」をお姿であわらし、説明したものです。

「仏様のこころ」を「本願」といいます。
この「本願」は、この私を離れてあるのではありません。  
私故に起こされた、「仏様の願い」であり、「本願」なのです。  
親鸞聖人は「親鸞一人がためなりけり」と言われました。 
「仏様の願い」「本願」は私に関係があるということになります。 
「私一人」ということが、「無常」というものにぶつかったときに、意識されます。
この死の自覚は、「今・ここ・この私」の上にあり、昨日も明日も関係ないです。
 この場に立つと、日頃当てにしている、名誉・地位・教養・財産も、妻も子も支えになりません。 
この問題を「後生の一大事」といいます。「生死の一大事」であります。
これは、「今・ここ・この私一人」の問題です。

「この私」を離れていないのが、「本願」であります。
「仏様の願い」とは、この私の救われる問題が、そのまま「仏様の願い」の上に先に問題にされていたということです。
私の問題は、私が問題にする先に、仏様の方で先に問題にされているのです。
私のいるところは、いつでも、どこでも、「仏様の願い」が先に届けられているのです。
私のいるところは、どこにいても、先に「仏様の願い」が与えられていることを教えているのが「仏壇」の内容であります。
どうも私たちは、仏様を私の外にあると考えがちではないでしょうか?
仏様は、この私の上にまで到り届いて、「信心」として私の上に成就したのであります。

 葬儀の最後に 蓮如上人れんにょしょうにんの書かれました  「白骨の御文章はっこつのごぶんしょう」を 拝読はいどくします。
その最後に「後生の一大事」という言葉があります。
また、白骨の御文章の中には、
老少不定ろうしょうふじょう」という言葉があります。
「老少」は「年寄と若い者」ということです。
『この世は無常で年寄が先に、若者が後で死ぬとは必ずしも定まっていないということ。』という意味です。
「寺は年取った者が参る所なんだ。」と思っている人が居たら、共に、この言葉に耳を傾けたいものだと思うのですね。
 もちろん、年取られた方がお寺に参られることは素晴らしいことで、長い人生経験で、酸いも甘いも味わい、人生経験の豊富な方が 寺に参られて、仏法を聴聞されている姿を見ますと、いつも感銘を受けます。
 また、年取りますと、連れ合いも亡くなったり、知り合いも段々亡くなり少なくなっていく、ということもあり、「無常」ということについても、 真剣に考える事にもなってくるのかも知れません。
若い人は、「真理とはなんだろう?」とか、「何のために生まれてきたのか?」「何か真実というものを探求したい。」という感性が心の奥深くにあるのでしょう。
そういう素晴らしい感性が「若さ」の中にあるように思えてならないし、そこが「若さ」の素晴らしいところではないでしょうか?
 つまり、「若い」と言うことは肉体的なことではなくて、「学ぶ気持ち」「探究心」があるのが「若い」ということなのかも知れません。
 何歳になっても「若い」ということはあるのでしょう。
 道を求めていく求道者をお経に 「善財童子ぜんざいどうじ」という「童子」で表現されていることも、 「道を求めるこころは若い童子のようなもの」という意味なのでしょうか?
大変趣き深いと感じます。
 私も、自分の心を脇に置いて、今まで学んだりしたことも、一度、全て忘れて、今一度、白紙になって学んでいきたいという願いはもっていますが、、、。
 ここで言われている「後生の一大事ごしょうのいちだいじ」とは、年齢とは関係ないことのようです。

人間には煩悩があります。 「煩悩」の中には、「愛欲」や「名誉心」など、色々あります。 
「愛欲」というものは、否定すれば否定するほど、起こってくる気がしますね。 
 否定しても消えないし、「超越する」ことが大事なのでしょうか?
仏陀は「超越する」ということを教えられたのでしょうか?
「悪を転じて徳を成す正智」【「教行信証」親鸞聖人】ということは、真宗では「転じていく」ということを教えられているのでしょう。
「名誉心」とは、
「よく思われたい。
すぐれた人間だと思われたい。
魅力的な素敵な人だと思われたい。
チャーミングな人間だと思われたい。
センスがいい人間だと思われたい。
才能ある人能力ある人だと思われたい。
カッコイイと思われたい。
ほめたたえられたい。
讃えられたい。
凄い人だと思われたい。
偉い人だと思われたい。」
等々のようです。
要するに「特別な何か」になりたい。
「このまま、普通」では嫌だ。ということではないでしょうか?
「特別」な何かになることは「エゴ」を満足させるのでしょう。
「普通」では「エゴ」を満足させないのでしょう。
「特別」になりたいのでしょう。
「特別」になろうとすることが人間を狂気の闘争に駆り立てていくのではないでしょうか?
しかし、たとえ欲に狂わされていても「あるがまま」の中に、救いというものがあるのが、かたじけないです。
 かく言う私自身も、中々「特別」な人間になりたいという欲求が無くならなくて、狂気の沙汰をしてばかりで、悩み果てなし・・です。
 「酒の席で自慢話を聞くと、酒が中々進まない。しかし、他人の悪口言うといくらでも酒が飲める。」と言った人がいましたが、そういうところありますよね。
 しかし、出来れば楽しい明るい酒がいいですし、その方が体にもいいですよね。
色々な花がありますが、花が他の花のようになりたいと願ったらおかしいことになります。
蓮の花は蓮でいいし、蓮のままでいいし、桜の花は桜のままでいいし、蓮が桜になろうとしたら、狂気の沙汰になってきますよね。
人間社会では自分以外のものになろうと努力することが当たり前になっているのでしょうか?
「財産欲」というものもあります。お金が欲しいと思ってしまいますね。 
「日々の暮らしが出来ればいいじゃないか。」という長老の言葉は忘れられない言葉ですね。
人間は強いようで、自分の「執着」に泣いているのが「凡夫」という者の掛け値ない姿なのかも知れません。
 大体、私は愛欲・名誉・財産・等々、眼が外ばかり向いている気がします。
 自分の「内面」が おろそかになっている気がしてなりません。
「内面」にこそ大事なことがあるのではないでしょうか?
「外に救いを求めようとすればするほど、救いの扉は開かれない、内に向かって扉を開きなさい。目を開け、心眼を開け。そうすれば仏様は常に あなたを照らしておられるだろう。」と言われた先徳もおられます。
そして私は他人のことばかり気にして、「他人を監視している。」のかも知れません。
他人のことを監視して、その人の為にも、自分のためにもならないのでした。
そのエネルギーを無駄に費やすのではなくて、自己の内面にこそ向けるべなのでありました。 

 それでは何が「価値ある大切なこと」なのでしょうか? それが「一番の問題」であります。
 先徳せんとくは、 「生きる拠り所、死して帰するところ」を聞かせて頂くと言われました。
 「南無阿弥陀仏」が、「仏さま」である。 
「南無阿弥陀仏は浄土からの便り」と言われた方もおられます。
 南無阿弥陀仏の中に、お念仏の中に、仏様の中に在る私というものを教えて頂きます。
 「仏様の願い」は「迷っているものが、一人でもいるいかぎりは、私は仏と呼ばれる資格がないんだ。」というお心と聞かして頂いています。
 迷っている者がいる限り、そこに仏様の救いの活動があるのだと聞かせて頂いています。
 「はすの花は、 どろの中に く。」という言葉がお経にあるそうですね。
阿弥陀如来も蓮台の上に立ち姿でおられますね。
その姿は、まるで「泥」から「仏様の世界」への無限の広がりみたいなものを感じさせられます。
「一番最低」から「一番最高」への「橋渡し」の姿に見えます。
 「毒草あるところに、 薬草やくそうあり。」という言葉を聞いたことがあります。
 「毒草どくそう」とは何を意味するのか?
  「どろ」とは何を意味するのか?
 ある信者は、「浄土真宗の教えを聞くと本当になることがある。」と言われたそうです。
何が本当になるのか?それは「自分の姿」と「仏様の救い」だそうです。
その信者のことを、他人が、「あの人は鬼のようだ。」と言われると、「その通りです。地獄の出店の私だから、、。」と答えられたそうです。
 又「あの人は仏様のようだ。」と言えば、「そりゃそうだ、浄土へ参って仏と成らせて頂く身だ。」と答えられたそうです。
 ほとけさまの 智慧ちえを頂いた人の、自己を見る眼のなんと 冷静れいせいなことでしょうか。
 恐ろしいほどの透き通った静けさみたいなものを感じます。

ご清聴頂きまして、有り難うございました。 称名

最後に 「人生のほほえみ」【中学生はがき通信】の言葉から、一部紹介させて頂きます。    
【『人生のほほえみ』波北 彰真 著 本願寺出版社より】 
                             
 
「笑顔」
笑顔の あなたは  
すてきです   
やさしく 明るい  
あなたの笑顔は   
安らぎ と ぬくもり と  
力を 与えてくださる  
えがおを忘れないで下さい   
あなたには 笑顔が   
よく似合うのですから   
  


ようこそ、お聴聞下さいました。有難うございました。合掌

最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え」の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。

「今ここでの救い」

 念仏ねんぶつおしえに あうものは、いのちを えて はじめて すくいに あずかるのではない。 いま くるしんでいるこの わたくしに、 阿弥陀如来あみだにょらいねがいは、 はたらきかけられている。
親鸞聖人しんらんしょうにんおおせになる。
 信心しんじん さだ まるとき 往生おうじょうまた さだまるなり
 信心しんじん いただくそのときに、たしかな すくい にあずかる。 如来にょらいは、 なやくるしんでいる わたくしを、 そのまま きとめて、 けっして てる ことがない。 本願ほんがんの はたらきに あう そのときに、 煩悩ぼんのうを かかえた わたくしが、 かならほとけになる さだまる。 くるしみ なや人生じんせいも、 如来にょらい慈悲じひあうとき、 もはや、 苦悩くのう のままではない。 阿弥陀如来あみだにょらいいだかれて 人生じんせいあゆみ、 さとりの 世界せかいみちびかれて いくことになる。 まさに いま、 ここに いたり とどいている すくい、 これが 浄土真宗じょうどしんしゅうすくいである。






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