平成30年5月 第79話

朝事*住職の法話

こころの窓を開いて」
     
 ゴールデンウィークの中、ようこそお参りくださいました。 
世間では、帰省ラッシュの真っ只中でしょうか?
 都会から故郷に帰省して、親に顔見せて、孫の顔見せて、親は子の顔見て喜ぶ。
そんな風景が浮かんできます。
それと同時に、ご主人を亡くされたばかりの方、子供が先立たれた方も世間には沢山おられることと思います。
それぞれの連休の姿がありますね。
あまり同情的な態度は、「上から目線」で良くないとは思いますけど、それでは「共感」ということが大事なのでしょうか?

 よく、「真宗の法話は難しい。」という声を聞くことがあります。
僧侶への厳しい「お育て」の言葉と受け止めています。
 確かに、真宗の勉強をすると、聞き手の事も察することもなく、つい難しい話をしてしまうことがあります。
 真宗について勉強したのなら、難しいこともやさしく くだいて話せるようになってこそ、勉強した甲斐があるというものでしょうか?

しかし、真宗の勉強するのも、中々大変です。
 私は以前、こんなことを考えたことがありました。

「何も、こんな難しい真宗の勉強をしなくても、  阿弥陀様あみださま慈悲じひの方なら、 ここに出てきてくれたらいいじゃないか?
そしたら、一発で仏様のことが分かるじゃないか?!
何故、こんな難しい真宗の勉強をしなくてはいけないのだ?」
私は、そんな横着な馬鹿なことを思ったりしました。

しかし、そういう私の気持ちを見透かしたかのように、ある先生が言われました。

「もし、ここに 阿弥陀様あみださまが出てこられたらどうなるか!
その 清浄しょうじょうなる 真実しんじつなる 阿弥陀様あみださま光明こうみょうらし出されて、自分の みにく煩悩ぼんのうまよいの 姿すがたが浮き彫りになったら、 あまりのショックで血を吐いて死んでしまうぞ!
観無量寿経かんむりょうじゅきょう』の中に、 イダイケ夫人が 阿弥陀仏あみだぶつを拝む場面があるけれど、 それは、 そばに お釈迦しゃか様が付いておられる。
だからイダイケ夫人は 阿弥陀仏たみだぶつを拝むことが出来たのだ。」
と諭されました。

 全く知らないということは愚かなもので、「こわいもの知らず」「わが身知らず」とは、こういう私のような考えをする人間のことかと思いました。
 蓮如上人れんにょしょうにんという方は、難しい 御聖教おしょうぎょうを読みこなし、自分自身で、よくよく 消化しょうかされ、 むつかしいことを、よくよく くだいて 一般庶民いっぱんしょみんが分かるような 平易へいいな 『御文章ごぶんしょう』を書かれ、 真宗しんしゅうの教えを広められました。 『御文章ごぶんしよう』を読んで、信者になった方も多く出られました。
 それは、ひとえに蓮如上人が難しい御聖教をやさしくして下さったからですね。
そういう  蓮如上人れんにょしょうにんの姿勢に、少しでも学びたいものです。
 
蓮如上人れんにょしょうにんは 「後生ごしょう一大事いちだいじ」ということを常に説かれました。
 後生ごしょう一大事いちだいじという言葉を聞くと、現代人にはピンとこない面があるのではないでしょうか?
 後生の一大事とは、どういう意味なのでしょうか?
 「この世は仕方ないんだ。だからせめて死んだ次の世では幸せになるんだ。」という諦めを説いているのでしょうか??
 現代のような複雑な時代に、社会の中で生きていると「死んだらお浄土へ参れる」と言っても、現代社会には、少し説得力がないのではないでしょうか?
それでは、仏様の救いは現実生活とどう関係があるのでしょうか?
  聴聞ちょうもんの後に、皆で 斉唱せいしょうするものに、 『領解文りょうげもん』というものがあります。その中に、
  「われらが今度の一大事いちだいじ後生ごしょう おんたすけそうらえと・・」
とあります。
 死んだ後の問題ではなく、今、生きているこの人生の「一大事」であるところの「後生」という意味になっています。
一大事いちだいじ」という限りは、とても大事なことで、先ずこのこと一つが解決出来なければ、 他のことがどうあっても、結局は虚しい。「一大事」とは、そんな切羽詰まったことではないでしょうか!
 逆に、「一大事」とは、このこと一つが解決するならば、他のことが出来なくても、「人間として生まれた意義が全う出来た。」
そんな大事なことだから「一大事」というのではないでしょうか!
 ある先生は「生きていることの感動、喜びを、その一点において感ずることが出来るというものが一大事です。」と言われました。
 今日、生きている私に、感動、喜びを、その一点において感ずることが出来るというものが一大事だと言われています。
 「今」という「一点」に関係がある言葉が「一大事」ということのようです。
 ある先生は「法話ほうわには、 生死しょうじを解決する言葉がなければいけない。」と言われました。


 今、今日一日が大事だと言ってみましても、人間は誰れでも、「老・病・死」という事実が人生には立ち塞がっていますよね。
 今日の上に、どれだけ生き甲斐を持って、幸せに生活していましても、それ全て残して死を迎えなければならない時が必ず来るのではないでしょうか。 
 私たちの、今日を生きるという事の中には、「老・病・死」という 事実をふくんでいるということを忘れてはならないのでしょう。
 老・病・死という事実をどう受け止めていけるかということが解決していなければ、幸せと言っていても、最後の最後で、 それを手放していかなければならないことになってしまうのです。
 それを 「後生ごしょう一大事いちだいじ」という言葉で、 蓮如上人れんにょしょうにんさとされたのでしょう。
 誰れもが  けて通れない「老・病・死」の事実に向かい合いながら、今日を生きていく喜びを、 どこにおいて見つけられるのか?
 それが 「後生ごしょう一大事いちだいじ」だとしたら、今日を生きている現代人の全てに関係があることになります。
 思えば、  一点集中いってんしゅうちゅうを 「後生ごしょう一大事いちだいじ」の解決にしぼって、寺参りして、 仏法ぶっぽう聴聞ちょうもんすることを大切にしてこられた、 門徒もんとの方々の後ろ姿に導かれて、今の私があるような気がします。
 
 また、現代では、家族が亡くなられて、通夜、葬儀、法事、納骨などで、 き方を しのびつつ、仏縁に会われる方もおられることでしょう。


 亡き方を偲びながら、家庭では、  仏壇ぶつだんに参り、手を合わせますよね。
 心は亡き方を思いながらも、仏壇に安置されている 阿弥陀様あみださまに手を合わせるご縁を頂いている形になっていますね。
 阿弥陀様の姿をよく見て下さい。
阿弥陀様は立っておられますね。「立ち姿」ですね。これは「働き」を表しています。
 立った姿を通して、私に向かって、「必ず救う」と呼びかけ、働いていて下さることを表しているのです。
 阿弥陀様は「全ての生きし生けるものを救う。」という「願いと働き」を持った仏様です。
 き方を しのびつつ、 仏壇ぶつだんに参り、 阿弥陀様あみださまに手を合わせますが、 阿弥陀様とは、そんな大きな大きな「願いと働き」を持った仏様であることに、少しずつでも心を向けて頂けたら 幸甚こうじんです。

 また、 阿弥陀如来あみだにょらいは、 「生きとし生ける全てのものを救う」という本願ほんがんの心を私達に届けるために 南無阿弥陀仏なもあみだぶつという 名号みょうごうとなって、私達一人一人に、働きかけて下さっているのです。
  「南無なも二文字にもじは『そのまま救う。』 阿弥陀あみだ三字さんじは『必ず救う。』 ぶつの一字は『親じゃぞよ。』」
と言う心が「南無阿弥陀仏」の 名号みょうごうの中には められているのです。
 ある住職の継職法要での、あるご門徒の方の挨拶に
「寺に参ること、法話を聞くこと、仏壇に参ることは、心の窓を開くことです。」
そういう意味のことを言われるのを聞いたことがあり、今、感銘深く思い出します。
 私たちは知らず知らず心を強く閉じて生きているのかも知れませんね?
仏様に対しては、特に心の窓を固く閉じているような気がしてなりません。
 毎日色々とご多用な中で、共に、 仏壇ぶつだんにお参りして、今日、一日を 阿弥陀様あみださまの働きに喜びを見いだしながら、 感謝かんしゃ懺悔ざんげの お念仏生活ねんぶつせいかつをさせて頂きたいものです。

ご清聴頂きまして、有り難うございました。 称名

最後に 「人生のほほえみ」【中学生はがき通信】の言葉から、一部紹介させて頂きます。    
【『人生のほほえみ』波北 彰真 著 本願寺出版社より】 
                             
 
「出遭い」
あまりにも急な別れでしたが  
母と子 妻と夫 友だち   
それぞれに  
いのち と いのち   
心 と 心 のふれあった  
確かな出遭いの中に  
共に生きてきたことを   
今なお 共に生きていることを   
ありがたく思います。   
  


ようこそ、お聴聞下さいました。有難うございました。合掌

最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え」の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。

「今ここでの救い」

 念仏ねんぶつおしえに あうものは、いのちを えて はじめて すくいに あずかるのではない。 いま くるしんでいるこの わたくしに、 阿弥陀如来あみだにょらいねがいは、 はたらきかけられている。
親鸞聖人しんらんしょうにんおおせになる。
 信心しんじん さだ まるとき 往生おうじょうまた さだまるなり
 信心しんじん いただくそのときに、たしかな すくい にあずかる。 如来にょらいは、 なやくるしんでいる わたくしを、 そのまま きとめて、 けっして てる ことがない。 本願ほんがんの はたらきに あう そのときに、 煩悩ぼんのうを かかえた わたくしが、 かならほとけになる さだまる。 くるしみ なや人生じんせいも、 如来にょらい慈悲じひあうとき、 もはや、 苦悩くのう のままではない。 阿弥陀如来あみだにょらいいだかれて 人生じんせいあゆみ、 さとりの 世界せかいみちびかれて いくことになる。 まさに いま、 ここに いたり とどいている すくい、 これが 浄土真宗じょうどしんしゅうすくいである。






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